チェコスロバキア最後の女性死刑執行対象者、オルガ・ヘプナロヴァの伝記映画。
音楽は不使用、抑制されたモノクロの画面、東欧映画特有の暗さが好きな人にはたまらないタイプの作品。
画面にはたらいている抑制は、静的な演出というより、社会からはみ出し者として生きるオルガの抑圧された感情の充満によって醸成されている。
オルガが殺人事件を起こすまでのどのショットにも、オルガが精神不安定により「いつ何をやらかすかわからない」のっぴきならない緊張感がほのかに漂っている。オルガが車を運転するショットは、運転席しか映らず外部の視覚的情報が遮断されており、例えば、この数秒後に乗客を巻き込んで故意に事故を起こすんじゃないかコイツ、という不安を抱えながら画面を見続ける羽目になる。その緊張感の持続が「ずっと観れる」一因となっている。
オルガが、家族、学校、恋人、職場とあらゆる場において友好的な関係を築けず、最初は素直に落ち込んでいたのに次第に他者とのコミュニケーションを諦め「社会が自分を拒絶している」という誇大妄想的な他責思考へと陥っていく流れは、「イタイ」けどどこか分かってしまう。
そして、自分を拒んだ「社会」とは彼女の周辺の限られた人間関係だけだったはずなのに、「人間社会全体」へと拡大解釈し、不特定多数の人々への攻撃をもってして大文字の「社会」との結節点を見いだそうとする思考回路も、やはり「イタイ」けど気持ちは分かる。
本作はオルガをめぐる善悪の判定にはノータッチであるし、そこは本作の主眼ではないけれど、オルガに悪いところがひとつあるとすれば、自分に素直になれなかったところかもしれない。
「自殺しようと思えばいつでもできる」と嘯くが、たぶん彼女にはその勇気はなかったと思う。母親にもそのことを見抜かれて「あんたには自殺する勇気なんかないんだから諦めなさい」と言われている(母親が娘にいう言葉かよ、とは思うが)
13歳で呷った薬も致死量ではなかったし、裁判で自ら死刑を望みながら収監後はイマジナリーパパを生み出して、パパが私を死刑から救ってくれるという妄想に逃避している。
虚構の強がりを捨てて、誰かに本心をさらけ出して心から頼る気持ちがオルガにあれば、周囲の誰かひとりでも、彼女に親身に寄り添ってあげられたのかもしれない。
オルガを体当たりで演じきったミハリナ・オルシャンスカには心から拍手。