やまもとしょういち

オオカミの家のやまもとしょういちのレビュー・感想・評価

オオカミの家(2018年製作の映画)
4.0
取材用に2回、オンライン試写で見た(2023/07/04、2023/08/07)。

恐怖とは何か、どこから来るのか、ということを考えさせられた作品だった。

フロイトは「不気味なもの(unheimlich)」について「実は馴染みのものであり、長らく抑圧されて疎遠になっていただけである。そして、それが現前に現れると不気味になる」と定義しているらしい。慣れ親しんだものが、自分の知らないものになったとき/慣れ親しんだものの、知らないところを見てしまったときに、人は不気味さを感じる、と。

本作はドイツ語とスペイン語が入り混ざっているが、ドイツ語で不気味を意味する言葉に「heim=家」という語が内在していることは、この作品との関連から見ても興味深い。

そもそも、チリとドイツの取り合わせの違和感(冒頭、窓が描かれる際に鉤十字が表れる)からして恐ろしさが醸されているし、監督たちに話を聞いたところでは、彼らはストップモーションアニメというアートフォームを用いてチリという国の民話(フォークロア)を作るという意図があったようで、本作の恐ろしさは「おとぎ話」の類のものが現実に深く根ざしていて、この世界の不条理な生と死を描いている、みたいなところに由来しているのだろうかと考えたりした。

マリアは明らかに聖母(母であり、天使であるというセリフがある)をモチーフで、コミューンから逃げ出し、マリアに人間に変えられた豚はおそらく原住民、オオカミは家父長制やカルトのアナロジーであろう。

マリアとオオカミは女性と男性(マリアを脅かし、叱責するオオカミ)の対比であり、マリアと豚は西洋からの移住者と原住民の対比としてシンプルに見るならば、マリアは家父長制の被害者であり、帝国主義の加害者である。この構造は現実に存在しているものであるからこそ、この物語が自分と遠い世界のものとして見るわけにはいかなかったからこそ恐ろしいものがあった。

加えて、過去のフィルムが発見されたという体裁のなかで途中唐突に現れるポケモン(プリン、アチャモ、リーフィア)とドラゴンボール(超サイヤ人4とベジータ)のシールの貼られた机が時代背景を掻き乱しており、というよりも、これらのシールの存在は少なくともこの映像は2006年以降のものであると暗に伝え、観客をグッと物語に没入させる装置となっていて興味深かった。

何も情報を入れず、初見で見たあとに「チリ ドイツ語」で調べると、コロニア・ディグニダのページがヒットし、さまざま合点がいってしまった。その体験含め、恐ろしかった。なお、コロニア・ディグニダの指導者パウル・シェーファーは2005年に逮捕されたらしいのだが、上述のように、この映像は2006年以降のものであるはずなので、いまなお本作で描かれた構造は現存していると想像させて、また恐ろしくなった。