Kuuta

スウィング・キッズのKuutaのレビュー・感想・評価

スウィング・キッズ(2018年製作の映画)
3.8
プロパガンダ

朝鮮戦争下の韓国の捕虜収容所・巨済島で、右も左もなく踊った若者の話。

壁に分断された世界において、人々は「左右」の移動が封じられている。閉鎖空間で生きているのは「上下」関係だけに見えるが(司令官にへり下る捕虜。捕虜を見下ろしていた米兵が突き落とされる)、画面の「前後」の動きが硬直した平面を三次元空間へ変える。今作におけるこのカメラワークは、良くも悪くも状況を打破する「革命」的行為を描写している。SUNNYは未見だが、映画的な見せ方に長けている監督だと思った。

その場で動けない、がんじがらめの人間が出来ること。それはその場で足踏みし、音を鳴らし、存在を訴えること、つまりはタップダンスだ。スウィングキッズとは、イデオロギーや人種差別に「スウィング」された弱者を指し、彼らは踊る事で左右の画面の壁を壊していく(汚れた血のオマージュも)。クライマックスのダンスシーンでカメラは左右に大暴れし、最後にロ・ギス(D.O.)が前後の壁を越える。

チームのキャラクターがそれぞれ時間を掛けて描かれているので、みんなが一体となるこのクライマックスは非常に熱い。ジャクソン役のジャレッド・グライムスは実際のブロードウェイダンサーだそうで、踊りの迫力だけでも大きいスクリーンで見る価値がある。

移動できず、声も発せない人間は「赤か青か」に与する事で自意識を保つ(炎と水の対比演出)。だが、スウィングキッズはカーネギーホールの白い光に希望を見る。黒人のジャクソンが与えた白と黒のタップシューズが、抑圧されたエネルギーを爆発させ、クリスマスに白い雪を降らせる。右でも左でもない彼らが最後に身に纏うのは「白」と「黄色」なのも示唆的(その衣装が結局何色に変わるのか)。

エピローグのジャクソンは黒い靴で現れる。それはもはやダンス出来ないほどの彼の悲しみであり、白人のフリをしなくて良くなった時代の変化でもある。

ジャクソンを乗せたバスは、分断の鉄条網に残った白い雪を尻目に通り過ぎる。スウィングキッズの希望の残滓は、現代にも転がっているはず。問題はそれを見出せるかどうか。

現実の汚い部分を取り除き、上下左右を綺麗に梱包した作品を、我々はプロパガンダと呼ぶ。この映画のストーリーは米国の司令官によって動き出し、最後の観光ツアーで司令官に有利な形に歪められている。

冒頭に流れる北朝鮮による映像と、エンドロールの写真は同じ画角をしている。作り手は、この映画がエンタメ化され、梱包されたプロパガンダである事に意識的である。

では我々は「こんな映画はプロパガンダだ」と、司令官同様に全てを切り捨てていいのだろうか。

ジャクソンに出来るのは回想に過ぎず、我々は観光ツアーでそれを分かった気になるしかない。その難しさを知りながらもなお、エンタメを通じて過去と向き合おうとする。ツアーから一歩踏み出すジャクソンのような、窓からダンスを覗いてみるスウィングキッズのような。そんな歴史との接し方が、我が国のエンタメには出来ているのだろうか。

多様な視点を差し込むためだろうが、やや要素が過剰な印象ではある。もう少し筋をジャクソンとロ・ギスに絞っても良かったのではないか。77点。
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