1940年代に実際に日本によって行われていた朝鮮での文化浄化(cultural cleansing)に抗った人々の映画。
改めて、植民地支配とは何か知るのにとてもよかった。映画は実話を元にしたものだけど、この人たちがいなかったら今の豊かな韓国語は我々の先祖によって消されていた可能性があると思うとゾッとする。日本の韓国文化を愛する人たちにもぜひ観てほしい。
文化浄化は植民地支配下の地域で度々繰り返されている。言葉を奪うことは植民地に元々住む人たちの抵抗力を奪う有効な手段だからだ。言葉を奪い、本を燃やし、その土地の歴史や習慣を消すことで、支配国の歴史やナラティブに取り込んでいくのだ。
日本は戦前、大東亜共栄圏を目指し、領土拡大を企てた。五族共和などと謳いながらも、実際にあったのは、侵略を正当化し、
同化させながらも人種的な優劣をつけ、都合の悪い現地住民を排除し、時に虐殺をしたという紛れもない事実だ。今でいう「多様性」をキャッチコピーとしながら、日本に同化する者には制限付きの人権や地位を認め、そうない者には制裁を下す、そんな場面や
植民地に元々あった文化を禁止し、抹消することへの執拗な姿勢が映画内で描かれている。
また、興味深かったのは、編纂者たちが、首都の言葉だけでなく、方言も熱心に集め、発音を記録し、さまざまな人々に同意を取ることで言葉を定義ていた点だ。このことも朝鮮総督府が行っていた一方的な日本語の教示と対照的に映る。
今でも日本では東京で使う「共通語」とその他の「方言」に大きく分けられるが、そもそもの「共通語」の認識を考えさせられる。(東京には国語で「方言と共通語」の授業はないらしく、東京の言葉が共通語と呼ばれていることを知らない人も多い。このことは、東京という都市自体が日本にありながら他の地域を植民地的な役割に置いている、という一つの例なのかもしれない)
今イスラエルがパレスチナでやっていることと関連づけて考えることも重要だ。私たち日本人は過去先祖たちが行った文化浄化の実態を知らずに、イスラエルのことを批判できるのだろうか。
日本国籍保有者として日本に住み、経済的恩恵を受け、育ってきた我々は、過去植民地主義支配を受けた国の人々の抵抗の記録を、最大限の敬意をもってまなざすことも必要なのではないだろうか。