はた

天気の子のはたのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
1.8
2019年夏公開された「天気の子」は「君の名は。」でも描かれた写実的風景描写、日本古典や伝承をベースとした奥行きのストーリーをもって再び観客たちを興奮の渦に巻き込みました。しかし興奮の渦とは必ずしもプラスの意味だけを意味しているわけではありません。なぜならこの映画の登場人物たちは社会の規範や一般的な価値観を飛び越えた行動をたびたび行い、そしてそれがラストの‘‘アレ‘‘へとつながるからです。もちろん新海誠監督はこれに対しては確信犯で「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」とまで語っています。しかし、私が思うに本作の意見が賛否両論になった点はもっと根本的なところにあると感じます。

その根本的な面に触れるためにはとりあえず作品全体の解説をふわっと行う必要があります。主人公帆高は離島にある我が家から家出して東京で生活を送り始めます。まだ高校生くらいの彼が働く場はもちろんなく、ライターの須賀の事務所に赴くまで彼はほとんどの時間をネットカフェで生活します。帆高がその際持ち歩いている本は「ライ麦畑で捕まえて」。その本の主人公のホールディングはこれといった理由もなく家出を行い世の中の大人に対して猜疑心、怒りをぶつけるようになります。帆高もまた、たまたま見つけた拳銃を拾い、社会へ対する怒りを強めていきます。ちなみに同年公開され、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「ジョーカー」でも拳銃は虐げられたものの怒りのメタファーとして登場しました。
この映画のヒロインでもある陽菜もまた、年齢的な問題により厳しい生活を送らざるを得ない状況にあります。しかし、彼女の場合は帆高よりも深刻です。陽菜と帆高が初めて出会ったマクドナルドで、彼女はアルバイトの店員として登場しますが、その後、彼女は年齢詐称をしてバイトを行っていたと明らかになります。さらに彼女は(気づいていなかったようですが)風俗嬢までしてしまいそうになります。そもそもこの映画の重要な要素である「天気の巫女」という伝承は「日本の人身御供の制度」そのものを表しています。つまり人柱です。帆高は東京をさまよう途中にバニラカーを目撃します。あれは性風俗のバイトの勧誘を行う車です。
話が進むにつれて、天気の巫女が人柱になることで天気は改善されるという事態が明らかになり、帆高は「陽菜を救うか、天気の巫女の伝えを守り、東京の異常気象を元に戻すか」という選択を迫られます。「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」とはまさにこのことなわけです。ですが、私が思うにこの映画をそこに持っていくにはあまりにも欠けている部分があります。それは、やっぱり大人、社会の視点の欠如です。

この映画に出てくる大人は基本的に帆高たちをだまし、攻撃し、理解するという行為を行いません。もちろんこれは帆高や「ライ麦畑」のゴールディングが憎む社会のメタファーなわけですが、私からしたら浅すぎると感じます。問題なのは大人側のキャラクターは掘り下げが浅いのに、そのキャラクター一人一人に深みを施したような演出をしたことです。例えば陽菜を風俗にスカウトする木村は帆高を容赦なく殴ったりするろくでなしのチンピラですが、中盤で妻帯者で、しかも子供がいると分かります(子供を抱っこするシーンもあります)。これはおそらくプロデュースの川村元気氏の意向もあったことだと推測できます。彼は映画コムのインタビューで「『天気の子』が“当事者の映画”になってほしい」とコメントしています。この映画には帆高や陽菜のほかにもいくつものキャラクターのバックストーリが描かれます。例えば、須賀の姪の夏美は就職活動に追われ、須賀の事務所に避難するように住み着いているモラトリアムを抱えた女性として描かれています、まるで「君の名は。」の時の瀧くんみたいですが、瀧くんも本当に出ていますね笑。しかし、当事者の物語にするという割にはやはり、大人側、社会側の掘り下げはあいまいです、というよりこの映画は全体的に大人側への寄り添いを拒否しているように感じます。

近年の新海誠作品はRADWIMPSに作曲をよく頼んでいますが、曲のレベルは相変わらず素晴らしいものですが、その歌詞には映画全体の「大人嫌悪」がにじみ出ています。
映画全体の主題歌の「愛にできることはまだあるかい」では、『勇気や希望や 絆とかの魔法使い道もなく オトナは眼を背ける』という歌詞が出てきます。ですが、もっとひどいのは「風たちの声」の歌詞で、「今僕らにあるものと言えばきっと 遥かな傲慢さと勇気と大人は持ってない モノのすべて」と言ってしまっているんですよ。さすがに大人側がかわいそうですよね笑。新海監督もさすがにそう思ったんでしょうか、映画ではこの歌詞がカットされたほうが流れました。

これまでの部分を総括して私が言いたいことは、この映画は「大人、社会側がこれまでの行動を反省して変わる努力をする描写」が欠けているという事です。つまり「大人?社会?どうせあんなの俺たちの言う事なんかわからねえよ」と切り捨ててるわけです。これは当事者の映画じゃないですよ。一人の幸福VS最大多数の幸福じゃないですよ。それでも「当事者の映画」として、ある程度のキャラに奥行きを与える。このちぐはぐさが賛否両論を巻き起こした原因だと思います。そもそも、主人公たちが憎んでいるはずの社会を「変われない、俺たちみたいなものは何も持っていない」と言ってあきらめるのは、社会全体がそのままであることをある意味『許している』ことにはならないでしょうか?

私が思うに、この映画は主人公を帆高ではなく、須賀にするべきだったと思います。須賀は、仕事の理由から娘から引き離され、半地下の事務所でライターを営む、帆高や陽菜と似たようなキャラクターですが、社会に対して、また自分も社会の歯車の一つとしてあきらめを抱いています。ですが、帆高や陽菜との生活を通して彼は精神的に成長し、最後は身を挺して帆高を守ります。なんと生き生きとしている、キャラクターではありませんか。新海監督は何度もインタビューで
「主人公が過去のトラウマを克服するために何かをさせるのは、気分として今回はやりたくないなと考えていました。仮に描いたとしても、凡庸などこかで見た話にしかならないと思いましたから」と述べていますが、それは「当事者の映画」を作るうえでは大きな間違いになると思います。映画にかかわらず物語の中で起きることをまるで自分が感じたようにさせる一番の方法は「キャラクターに登場人物が共感できること」だと思います。中途半端なバックストーリーは必要ないのです。「あ、同じような気分になったことあるな」という気持ちが必要なのです。本当にトラウマなどがなしで主人公が動く映画を作るのであったら、それこそ登場人物のバックストーリーを削り、冷酷で感情移入できなくて、憎まずにはいられないようにするべきです。まあ、最終的に映画全体の構想を決め、組み立てていくのはもちろん新海監督の自由ですが、もし私がこの映画を監督することになったら、私は迷うことなく須賀の視点に沿った映画を作ることになるでしょう。

出典:新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」https://kai-you.net/article/66490

出典:新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程https://eiga.com/movie/90444/interview/
はた

はた