“我々が映画を完成させる”。骨を抜かれ、魂も抜けてしまった。結局、むきだしになったのは、濱口竜介の「親密さ」。人物らはただ空虚な体だけ。濱口竜介の会話劇では、言葉のやり取りが人と人との距離を広げ、親密さがかえって孤独を深めていく。その空洞の中に、何も残らない痛みが沈む。そこに居るはずの人間は、ただ居るだけの存在になる。言葉という骨、想いという魂、そんなものが静かに落ちてゆく。言葉以上に意味をなす沈黙と目線。その時だけ、我々は言葉以上の感情を読むことが出来る。空気や空間が違う、パッと変わる。これは映画なのか?これは現実なんじゃないか?それとも、映画と現実の狭間にある非現実的な現実か?現実という枠を越えた、映画という非現実をも越えた映画。文章をそのまま映像化した。映画自体の構造が無いというか、破壊されているような。役者が映画以前のリハーサルを演技する、そして映画自体の内容は言葉で語られる、実際の映像を見せることは無い、何度も何度も同じセリフ、シーンが反復する。グロッケン叩きのマッキーの反復はもう心地が良くなる。見ている観客たちに脚本を聞かせ、映像は頭の中で想像しろってことかな。魂や骨は彼、彼女らがくれる、たが肉体は僕らが造らないといけない。ほのかは我々が造らないといけない。映画を完成させるには、我々が必須。映画が生まれる“前夜”をずっと見せられているようで、それが逆にものすごく“映画的”という矛盾、この構造がヤバすぎる。我々はこの映画を見た事で、映画を形成し、自らの王国を使ってしまった….、この世界の人物(制作陣も合わせて)自らの王国、に囚われ同じことをし続け、生活しているように見える。こうゆう世界として、見るのもいいね。これは最高傑作(最高の傑作)と言っていいだろう。実質3回連続5点はやばい、いい映画が続き過ぎてる。