ニューランド

シノニムズのニューランドのレビュー・感想・評価

シノニムズ(2019年製作の映画)
3.9
既に、昨年のフランス映画祭の時からの一部での話題作・注目作らしいが、 この先も有望な新星の登場といえるかどうかわからない。そもそもこの題材自体あまり興味が湧かない。かなり優秀な若きイスラエル兵が、軍に顕著な国の不条理に噴飯、親にも無断で除隊・単身パリに移住して、誰にも知られず孤絶して、言語・思考から新たなフランス人に生まれ変わろうとするが、引き裂かれてゆく。日本人の私にはピンとこない、私はせいぜい地方出身者でしかなく、生きてく為に生まれ育った土地の言葉・風習を捨てる覚悟、その可能性はあっても、それは手段であって、生きてきた過去の内実~辛かった環境まではあっても、文化・基本概念~まで否定・抹消しようという発想は持たない。宗教・民族の統一的締め付けの大きいところでは、少しの違和感から発展して、過去・生活体系の全否定も起こり得る。それだけ環境が違い・まるでピンとこない、こちらからのリアリティのない話で、いつ知れず、これだけインパクトを受けるのはすぐには説明がつかない。最近色々慮った優等生的な新人の多い中、この何にも定義出来ない圧倒的映画表現の力と定着を拒むような反美学のあり方に、疑いのない傑作と誰もが云うしかないは、凄いことだ。しかも、外野から見て、知らないもの同士が壊し合うのに快哉を叫ぶわけではない。具体的な攻撃対象、護るものはない、見えないのだ。ただ、一見ひとり相撲的な内的からの格闘だけがあるばかりなのだ。本作が意識・対抗する権威・既成概念は分析的には存在しない、自分だけの模索・追求が結実・到達を拒んで、激しく可笑しく存在し続けてゆく。しかし、格闘が見えるということは、囲むものも常識外にしかし強く粘り合って、変形し続けながら存在しているのだ。
冒頭から、街ゆく荷背負った若い外国人へカメラのフリー・ハンディなフォロー・呼吸、そしてアパルトマン駆け上がって最上階の無人の部屋らの色や佇まいの対照トーンへの無邪気かつ壮大限りない行き来・行戻りの無意味とも見える走り回りによる空間相互対比バランスの傾ぎ・戻り・拡がりの普通効果狙いの造型を外れた独自のなまに活きた造型で、不思議に惹き付ける。無力で・逆に存在の剥き出し・根からの生活上鍛えの力持つ裸体でのうろうろ、今度は助け求め上下階を行き来の階段捉えに移行し、柔らかく威圧無で彼を救う(世俗・偽善の)存在の登場と対比へと、妙に流れてゆき、普通ドラマの確定・前段押さえとなってゆかない。映画本来というのか、より始原の力で引き付けてくるのか、得体知れずも好ましくもあるものを感じてくる。そう一年に何回もある訳ではない新しい才能に巡りあったことを感じ、それは全編失われず、特定の形へも決して収束しない。
フランス語の習得も実用性を超えてオブセッション的に執拗であり、大使館の警備員勤めでの・自らは参加しない格闘試験の捻りや勝手一存での難民受け入れ、裸体での絵画のモデルの美追求を超えた・画家からの屈辱的でもある性的変態嗜好への逆らわない呑み込まれ、酒場の立錐の余地もない現地仏人舞踊への(かねて飢えている)食料確保絡めての奇異独自参加~群より一段上への突き出たりや低くひとり床をはってくへ、親切なフランス人の寛大か偽善か・優しく金や性や妻帯へも誘導してくへ・抗わず従う無力感、回想での故国軍隊のチアガール存在を持つ無意味活気と理不尽処刑の同じ場での存在、黙って置いてきた父の急で強引訪ねへのかわし、フランス生活習熟学校の極端・理不尽な民族間の区別線の押し付け、仏人新妻の音楽活動招待へ仏人社会思い上がり不条理をそっくり返しての破壊。
自己の確たるアイデンティティを持てずに、自己を形成してきた文化・組織・共同体・言語・思考を捨て、それらを蔑視し・憎み・唾棄して、それに代わる新たな世界の高貴に纏うものを身につけ、生まれかわろうとする。が、そのこと自体・それを行おうとしている自己を端から否定・嫌悪して、行為を敢えてあからさまに荒立て衝突を招こうとしているようでもある。生活の糧も状況も決して生国と完全対立してるところまでいってなくて、利用もしている、その自堕落も疑わない。誰も理解・所有出来ない、自己だけの認識不能の絶対世界を持っていて、それを汚した・貶めてる故国に怒り・苛立ちを持ち、それに成り代わろうとしているフランス人像も、現実離れした実際には相容れないところへ進み、現実とのいさかいを望み・予期している。実際のフランスとは、そこを頭ひとつ抜け出て・身体半ばズラして、心底溶け合おうとはしない。これに対するフランス社会も、厚意・偽善や、紳士的高い意識のやり取り等、懐から抱え込もうとしている、優しさや高みからの無茶という形をとらせている。まるでケン・ラッセルのような姿勢。スタイルも破壊の後の様式美を持つラッセルに似てるが、造型は確定せず造型を繰返し、カメラも人もそれを導く如くに色彩・陰影の独自とリアリティをその動きで更新してゆく。動き形式に固まる直前での画面への埋めの不断・空間と色調の行き来・絡みや叩きや舞踏から抜け出すもの・または常にはみ出すものがあり続け、それは限りなく力強くまたゴニョゴニョと蠢き抜け、固まった形を拒否している、しかし見事に面白く強い。大島的な、偽善・誇りの部分も持つ。併存・矛盾もモゴモゴせず、生き抜いてる。この決して固まらぬ、流れ・絡み・集合・対峙、ひとつ捻れでてる、根深くまた常に新鮮な力を、こちらからも認め続けることとなり、それは何にも立脚せず・かつ足場の下の生命・有史以前の何かの力に気づかせてくれる。じつはそれは当初は、誰も知らないところで気高くありたいという潔癖症的なひ弱い性格の強いものだったかもしれない、しかし、他人を広い目からはいい形で不意に本質的に傷つける位に、太く現実的なものともなってきてる方向を手離さないでいたことが重要だ。
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