hiyori

82年生まれ、キム・ジヨンのhiyoriのネタバレレビュー・内容・結末

82年生まれ、キム・ジヨン(2019年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

観賞後もしばらく自分の考えがまとまらず、未だに結論は出ていないのだけど、現時点での記録として書こうと思う。

原作には思い入れがあるというか、かなり影響を受けていたので、原作を読んだ人にとってはよりラストの展開や夫、弟の描かれ方に関して色んな解釈の仕方があるだろうな…と思った。

映画のラストシーンを観ているとき、原作を読んだときのような「これは私の物語だ」という気持ちは無くなっていて、その瞬間に"私たちの物語"から"キム・ジヨンという1人の女性の個人的な物語"に変わったように感じた。そして、私はコンユを、夫 父親 弟をどう捉えるべきなのか分からなくなったし、一見”良い人”のように思える夫は結局何を理解したのか?ジヨンや自分自身が組み込まれている社会構造に気づいているのか?原作の展開を変えて最後希望を描いてみせたことにどんな意味があったのか?と疑問がまず浮かんだ。

そして底なしの絶望を突きつけ、答えを一切示さず、強烈に思考を促した原作のあのラストを改変したこと、絶望を和らげ、問題の核の部分を曖昧にすることに、より多くの人に向けて入り口を広くするための”英断”にどんな意味があるのか。 映画を観て何かに気づいたり自らの体験を誰かと話し合ったり、原作を手に取ったり、ということに繋げていくため…? ウーン……といまいち腑に落ちなかった。


「真の絶望とはコン・ユの顔をしてやってくる」というレビューを見て なるほど…と頷いたり、夫や弟が”良い人”に見えること がこの社会システムと地獄を描き出す上でポイントなんだろうなとも思ったり。
しかしその一方で、製作者側がどこまで意図しているのかが分からないので、“希望のような見た目で描かれていること”に私は絶望を感じて、腑に落ちなかったんだけど、そもそも”希望のような見た目をした絶望” を描いている可能性もあるよな……だけど、この”絶望”は伝わる人とそうでない人がいるだろうな……それならもっとはっきりと描写した方がいいのではないか……(事実、隣に座っていた人たちはおそらくラストの展開を受けて「良い映画だったね〜」と言っていた)とか とにかく未だに思考を続けているし、答えは見つかってない…

これは先日『パピチャ』を観たときにも思ったのだけど、映画自体はフィクションだとしてもそれが現実に生きる人々の物語に基づいているときの希望と絶望の描き方 難しいな…と感じる。マスに向けて発信するときに、果たして本当にソフトにする必要があるのか?とか。

色々と考えるべきところはあるけれど、最後のカフェのシーンでのジヨンに勇気を貰ったことも確かで、あのシーンを観て改めて「私は家父長制とあらゆる性差別に抵抗していたくて、そして抵抗している人がいたらその人の隣に立ちたい。」と思った。抵抗する勇気、声に出す勇気、行動する勇気を持ちたい。
そして特に女性陣のキャスティングがすごく良かった。ヨムヘランさんが今回もとても良かったし、あのバスのシーンは本当に胸が詰まる。

もう一度原作を読み直してみようと思う。
hiyori

hiyori