面白い映画を探す人

生きるの面白い映画を探す人のネタバレレビュー・内容・結末

生きる(1952年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

日本の映画は黒澤明がいて、宮崎駿がいて、少し北野武がいて、あとはいない。文学、というか人の心と百代の過客。これを知ってから映画を撮る人の中で、黒澤監督だけは誠意をもってメガホンをとった。俳優には本気の人間が何人もいるが、ペラッペラの内容ばかり作る日本の映画界をみて、黒澤明は何と思うだろう。

この映画に描かれているのは、「美しいことに気付いた。良かったね」ということではない。「人生を価値なきものにするのは、一体何がそうさせるのか」という問いと、「思い出しても、私たちはなぜ捨てるのか」という問いについてだ。

人生の最後に無邪気にそれに気付いた主人公の渡辺だが、彼が無為に過ごした長年の下で、気付いたり思い出したりしたがそれを抑圧した人々が少なからずいたであろうことは、度外視してはいけない。

渡辺はこれまで人の死を飽きるほど見てきたはずだが、それに真摯に向き合ってこなかったことは、物語の初めから露呈している。人の死は不感症として通してきたが、いざ自分の死となると思い出したように真人間になるなど、片腹痛い。が、それが俗物の宿命であり、渡辺が死を間近にして改めて生まれる存在となるために、必要なことでもある。

渡辺を一夜の享楽へと誘った小説家は、結局その後の渡辺について追いはしない。役所の事務員で渡辺に決定的な影響を与えた小田切とよは葬式には出ない。これを作為をもってそうしているなら、むしろ黒澤明の矜持がここに垣間見える。小市民として生き、そこそこの人望を得て名も無く消えていく者の姿は、まるで「これは大衆映画なんだ」「どうせまた忘れるんでしょ」というメッセージさえ聞こえそうだ。

つくづく、「映画は金がかかるから陳腐になる」と思わされる。黒澤が売らなくていい映画を作ったら、どんな映画を撮るのだろう。