ニューランド

陸軍のニューランドのレビュー・感想・評価

陸軍(1944年製作の映画)
4.4
☑️『陸軍』(4.4)及び『二等兵物語』(2.8)▶️▶️

 戦中と戦後10年の作、日本陸軍、むしろそれへの想いを描いた2本を観る。
 『陸軍』は、40数年ぶりに観たが、やはり作者のあまりの天才ぶりに舌を巻くばかり。気づかれないままにカメラはその場の空気に完全に溶け込んで、人の出入りを荒立てなく取り込むに、ワンカット内で何回も微かにかつ効果絶妙に前後·或いは横へや浅く回り込み、複雑以上に深く鮮やかそのもの。さり気なく、表面的才では、底から持ち上げる溝口を上回る程。単に状況に振り回されてる訳では無く、深く格ある縦の構図の人物の奥までの配置·日本家屋や街並みの巧みな厚み·親近感まで引連れている。そればかりか、主たる対象の手前を人々に横切らせ、ドラマだけの世界への縮こまりを避ける。俯瞰の退きからもいつ知れず、ティルトして対象をずらせたり·その中の主要者へ降りていったりしてる。そして短めも力ある急なパンや回り込みで、その光景を見つめてる異彩かつ頼もしい力放つ人の鋭い存在、或いは客観的に風物的に視野に入れ包んでる人(ら)のUP(連ね)の別の流れの併存·移行へ、急に動いて作られる新しい位置関係、を収めて新規の力を取り入れ、その軌跡を気づく隙もない才気も。トゥショットの侭の長めフィックスめもあるが、何より無心の·効果狙いを超えた真の天才は、他人の家族内の仕草から本質的温かみを感じ取る視界カット、家族ばかりを気遣ってて気付かなかった母の自らの疲労·老いの実感のCU長め、らの無台詞カットの選択·はめ込みである。
 タッチの天才に留まらない。微かに観てる私も憶えてて、変わらぬベースとして、今も自分の底に流れているかも分からない、特に地方に生まれ育った人間特有·そこからの普遍の、体温持つ人間の条件が遠くなく、示されきってる、作者の知的操作を越えた、意識の外の根っこが絡まされている。「大日本史(観)」「軍人直諭五箇条」「天子様(からの預かりものの男の子)」「英米の謀略からのアジアの抗日へ征伐」「(分け隔てはなく、日本人全てが)戦友」「(お返しし)国のお役にたてる日」等を語りつつも、それらは上から強制·降りてきたものというより、男以上に女の側に存在する、自らイチから対人意識を築き上げる·はたらきかける意気、軍隊や国体をはみ出した家族·地域·人間の中と間を無条件に繋げる温かみ、の表す思想のラジカル以上にラジカルな、大きな歴史とは別に息づき巣食ってきた、ひとりひとりレベルの生態·心情·全より個·そこからの向上意識である。それは本人には、より大きな現実に引き裂かれるまで、眼前の表面的な障害としてだが·とくに意識される事はない。そして苦く複雑でより深い己れの·そして周りとの力に通じてく。理性的観点からの、否定(ストレートでウエイト大の分だけ塗り潰せない)も肯定も超えたもの。
 そして、映画史上の高名な十数分に渡る移動に次ぐ移動のラストシーン。明治維新の頃から多く10年刻みで進んでく·構えてそうで構えてないコンパクトな構成、昭和10年代の支那への出兵=出征に、30代になりやっとその誉れにあづかれ加われた長男への、初老に至ったその母の、一旦は見送りを届まった所からの踏み出し、追い·追いつき·併走·抜き·人渦に潰れ·体起こし祈り手を合わせ、の例のない·健気に同化させられる·(神や国体の絡まない·命の限りある人の自らを自覚しての)美しい人間性解放は、決してそこだけ浮き上がったものではない。田中絹代は戦中でも清水·渋谷らの恐るべき傑作=名演を著しており、木下も『歓呼の町』等と併せ、戦後すぐの頃からの瑞々しい才気あふるる作品群ばかりか、その後·逆コースに敢然と挑んだ『~純情す』『日本の悲劇』『女の園』の一大ピークにすら、筆致も筆力も劣らない作品をデビュー時より物していたのである。
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 伴淳の晩年は、映画やTVで結構見かけたが、全盛期は「アジャパー」など言葉でしか知らないので、作品的に期待は無理としても、一度は、と目にする(劣化もかなりの『陸軍』に反し、かなり綺麗なニュープリントでもあり)。この終戦直前の高齢初年兵多の国内陸軍部隊の日々を描いたこの作品はいつの製作年かも確認せずに観たので、あまりの戦争自体が脇にやられ、封建的な学校教育·クラスの是正を求めるような、軍隊批判のぬるさに驚いた。観終わった後、調べると○○族が流行り、「もはや戦後ではない」と云われる直前の昭和30年の作。
 事件やリアクションの重ね·作り方、カメラ移動やカットの組立て·角度取り、そういった形式も単純·幼いし、ムードも初めのマルクス兄弟的に権威と常識に破壊的になるのかなと思うと、ホンワカ·結構マトモに。戦争が終わり踵を返して逃げようとする上官らを集め、銃を構えて、チャップリンばりに伴淳が感動を込めた演説も、国体·軍隊の非情·非人間性を批判するのではなく、それを運用する上官側の、人への信頼·協調を欠いた自己の我儘·愉悦本位の勝手を突き、それを正せば楽しかったかも(そういうベースは描かれてる)、となる。社会の空気·世界の危機の意識·緊張もなく、呆気にもとられた(解放の勢いに乗ってばかりの内容ではない)。暴力·愛の対象との引き裂かれ、ばかりが強調され、軍隊のシステムの歪み·過酷には踏み入れず甘いのは、戦後しばらく軍国主義批判映画が続いた後の、「戦後ではない」に至っての反動の現れなのか。
 とはいえ、戦争や軍隊の真実·多面性など私にわかろう筈もない。あくまで、直感だ。前者には共感、後者はおかしいと思ったに過ぎない。キューブリックや薩夫作品が真実かと思うと、私の祖父のようにやはり30代半ばで招集され、前線や略奪とは無縁で‘支那’の土地と人に、生涯愛着を感じてた人もまたいる。
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