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My Winnipeg(原題)
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『My Winnipeg(原題)』に投稿された感想・評価

実験的なアート映画で定評のあるガイ・マディン監督のモキュメンタリー映画です。監督の故郷であるカナダのマニトバ州南部にあるウィニペグの紹介ビデオの体裁をとっています。なんか、すごく寂しい感じに描かれていますが、実はカナダで八番目に大きな都市だそうです(Wikipediaより)。

ガイ・マディン監督の特徴は非常にモダンな手法を使ったノスタルジックな映像です。今回は映像的な特徴もそうなのですが、非常に詩的です。ナレーションが詩の朗読のようなのです。ガイ・マディン監督の特徴的な映像に合わせた詩の朗読。これが本作の正体だと思います。

すっごく好き嫌いが分かれると思います。アート映画が好きな人にはピッタリの映画。オススメです。今回の場合は詩的なので特に福間健二監督作品が好きな人にオススメかもしれません。しかし、映画に少しでもストーリー性を求める人にはあまりオススメできません。ボクは少しはストーリー性を求めるので、この評価となっています。あと、テーマもあるのでしょうが、少し汲み取り難かったです。これはボクが詩が苦手だからだと思います。詩を読むのが好きな人ならば、この映画のテーマも読み取れるのかもしれません。
祝2400本!

[母なるウィニペグ、父なるホッケーの神話] 80点

傑作。ガイ・マディン長編九作目。『臆病者はひざまずく』『脳に烙印を!』に続く"ガイ・マディン"三部作の最終章で、ガイ・マディン印とはいえ最も個人的な記憶に寄り添った作品とも言えそうだが、意外にも作品の発端となったのは彼の故郷ウィニペグについてドキュメンタリー映画を製作する企画であり、当初の題名は『Love Me, Love My Winnipeg』だったらしい。そこにプロデューサーの"ウィニペグなんてクソ寒くてクソ汚え街なのはみんな知ってるから、それ以外で頼むわ"という言葉がきっかけとなり(無論マディンにそんな"簡単な"作品を撮るという意図は微塵もなかっただろうが)、本人が語るところの"個人の歴史、市民の悲劇、神話的仮説"を融合させたウィニペグについての"ドキュファンタジア"作品が完成した。『臆病者はひざまずく』で"ガイ・マディン"を演じたダルシー・フェールが再び同役に返り咲いているものの、声はマディン本人によって吹き替えられている。また、幼少期のエピソードで登場する生家は実際の家を借りて撮影するなど、かなり気合が入っていることが伺える。物語は蒸気機関車の客席で眠るガイ・マディン青年がウィニペグの街を紹介する場面で幕を開ける。ウィニペグはアシニボイン川とレッド川の合流地点にあり、そのY字形状は女性の股を連想させ、それはつまり母親である、と。彼の中ではウィニペグと母親は同義なのだ。ガイ青年はしきりに"ここを出なければ!"と叫ぶが、それは母親離れを希求してのことか。続けて、彼はウィニペグの不思議な歴史を語り始める。まず、ウィニペグは夢遊病の発症率が異常に高く、彼らが無意識のうちに"帰宅"できるよう、昔の家の鍵を持ち歩いているそうだ。新しい住人は訪ねてきた昔の住人が起きて正常に戻るまで世話をしてあげねばならない、と。彼の語る物語は前触れなく脈絡もなく移ろい続け、それはまるで虚実を混ぜ合わせた夢のようなものであり、我々も夢遊病者の一人としてウィニペグに取り込まれていくような感覚すら覚える。普段通りのサイレント映画的な演出は、ある種の走馬灯を共有しているのかもしれない。

両親の結婚65周年を記念して、ガイは母親役の女優を連れて生家を借り、兄弟たちの俳優も雇って記憶の再演をすることで、自分をウィニペグに留まらせようとするウィニペグの"恐ろしい力"を分析しようとする(そしてなぜか貸主が居座ったせいで記憶の中の家に知らないおばさんが紛れ込むという変な絵面に)。再現するのは1963年、ガイ少年は7歳だったこの年、10歳上の兄キャメロンが交通事故死した恋人の墓の前で自殺する前の、家族全員が揃った最後の時間である。他に12歳上の兄ロスと7歳上の姉ジャネットがおり、当時は父親も存命のはずだが、彼が"既に死んでいる"ことを理由に再現からは除外する(ゴネる母親との交渉の結果、リビングのラグマットの下に再度埋葬したことにして話が進む)。前作『脳に烙印を!』では島の内側に向いた灯台からガイ少年を監視する母親が登場していたが、本作品でも引き続き支配力を見せつけてくる。まず最初のエピソードが、家族全員で母親主演のドラマを観るというもので、しかもそれが毎日正午に放映される、毎話違う場所で飛び降り自殺騒動を起こす息子を母親が説得するという一話完結ドラマという地獄みたいな内容で、キャメロンの自殺ともなんとなく重なってしまい、心が苦しくなる。ジャネットが鹿を轢いたというエピソードでは、それが性的関係の暗喩であると看破する。このエピソードを通してガイは、"どこにいても母親の視線を感じた"と述べている(前作と重なる)。なんとなくの印象だが、上の三人の兄弟と年が離れているため、ガイ少年の人格形成期と彼らの反抗期が重なって、人格形成期に母親の唯一の味方という役割を強いられてきたのかもしれない。だからこそ、離れがたいと考えているのだろう、と。

ウィニペグ奇天烈伝説も次から次へと飛び出してくる。上記の夢遊病者の話に始まり、競馬場パドック火災事故で逃げた馬が凍った川で凍死し、氷から首だけ生えてる状態になったことで、そこが観光名所化した話や、二大タクシー会社が表通りと裏路地でシマを分けた話、ナチスの制服を着込んだ一団を街に展開して市民の恐怖を煽り、戦時国債を買わせた話(これは事実らしい)など、虚実すらも曖昧なエピソードが並べられる。権力者による降霊会のエピソードでは、バレエを使って降霊術を表しており、サイレント映画的なカット割りと相まって過去作『ドラキュラ 乙女の日記より』を思い出した。かつて興隆を極めたイートンズ百貨店が倒産し、その跡地にアイスホッケーのスタジアムが建設されるという話では、現在のカラー映像を使ってまでバチギレていたのが面白かった。ウィニペグはウィニペグ・ジェッツが1996年にフェニックスに移転して以来、2011年にアトランタ・スラッシャーズが移転してくるまで地元チームがおらず、映画製作当時2007年はその空白期間にあった。フェニックス移転を許したのに、今更地元の象徴だった百貨店を破壊してまで作った新しいスタジアムが帯に短し襷に長しというカス状態だったことに怒りを覚えるのは当然と言えるだろう。続けて、新スタジアム建設に伴って破壊された旧スタジアムの思い出を語る。ガイの父親チャールズは優秀なホッケー選手で、シニアリーグのチームであるウィニペグ・マルーンズのゼネラル・マネージャーだった。伝説的な試合がここで行われたこともあった。なのに今では見る影もない…と。家族の中で父親の影が薄いのは前々作『臆病者はひざまずく』に描かれている通りなのだろうか?あれも主人公がホッケー選手で、ホッケー場の屋根裏に臆病者が蝋人形化されて飾られていた。前作『脳に烙印を!』の父親も、部屋に籠もって出てこないマッドサイエンティストだったし、家での影響力は小さかったのだろうか?彼が亡くなったのは監督が21歳のときで、キャメロンよりも後のことだった。つまり、実家の再演映像の時は生きていたはずなのだ。

マディンは本作品以降の長編作品で母親を登場させていない。心の整理が付いたのだろう。一方で、本作品の終盤で語られた死者への思いは次作『Keyhole』でぶち撒けられる。死者の集まるかつての生家、徘徊する義父の亡霊、それぞれの部屋に割り当てられた物語を紐解くという構造を持つ同作は、どこか本作品の実家を想起させる。既に構想はあったのかもしれない。父親や家族についての物語も次作以降は扱っていない。ジョンソン兄弟との共作開始を第二期の開始と考えるなら、本作品は第一期の完結、次作は移行期にあると考えるのが自然だろう。そして、上記の通りこれまでの作品を総括する集大成的な作品でもあった。なんとなくジョンソン兄弟がマディンの創造性の邪魔をしているという印象だったが、本作品と次作で映画製作へのエネルギー源だったものを全て失い、寧ろジョンソン兄弟に助けて貰ってる状態なんじゃないかと思うなどした。
4.0
【映画を撮って、ウィニペグから脱出するぞ】
2024年末にマシュー・ランキン『ユニバーサル・ランゲージ』を観直したところ、明らかにガイ・マディン『My Winnipeg』のリメイク的関係性であることに気づいた。クライテリオンのブルーレイを入手して観直したのだが、以前よりも面白い作品のように思えた。

マシュー・ランキン『ユニバーサル・ランゲージ』では「ウィニペグは観光地じゃない」と虚無を抱きながら帰郷するマシュー・ランキンが自分史を通じて土地と対峙する物語となっていた。同様に本作も、電車でウィニペグに向かうガイ・マディンが微睡みながら映画の構想と土地の歴史、そして自分の歴史を虚実曖昧な形で連想していく内容となっている。骨格は全く一緒なのだが、『ユニバーサル・ランゲージ』はペルシャ語圏となったウィニペグの街を現実として捉えながら話を進行させるのに対し、本作は夢をベースとして物語っている点が興味深い。ガイ・マディンは嘘をキュレーションする中で自分の本質にたどり着けるといった思想を持っており、映画における夢の側面に執着しているため夢の中に実際のホッケースタジアム爆破の事実を挿入するアプローチを取っている。彼はもはや意識レベルでホッケーが重要な要素らしい。それにしても、ガイ・マディンのエッセイなどを読むとウィニペグ出身の監督が揃って、「ウィニペグには何もない」と語りながらその虚無かに惹きこまれて変わった映画を作っているのが興味深い。あの街には何があるんだ?ツイン・ピークスみたいな街なのかと思わずにはいられない。2025年はガイ・マディン特集があり『ユニバーサル・ランゲージ』が公開されるので、是非とも『My Winnipeg』も紹介されてほしい。