賽の河原

リチャード・ジュエルの賽の河原のレビュー・感想・評価

リチャード・ジュエル(2019年製作の映画)
4.6

最近話題になっているニュース、心底ガッカリしたり「いや、一周回ってやっぱ凄えな!」ってなったりと乱高下しています。一つ言えるのは『寝ても覚めても』という映画が非常に才能ある監督によって撮られた、素晴らしい芸術性ある作品だということ。そしてフィクションと現実の境目が曖昧になってくるような傑作だったということですよ。それだけに、作品に傷がついてしまったことが残念でたまりませんね。もっと言うと、「落語ディーパー」もしばらくなさそうだしね...。本当に残念ですな。
ということでね。今日は近くで毎月行ってる落語会があることを完全に失念して、イーストウッドの新作を観てきましたよ。
もう毎度のことですが、私はイーストウッドというジジイの信者です。なので話半分に聞いていただきたいですが、文句のつけようのない完璧な作品でした。
言ってみれば『ハドソン川の奇跡』『15時17分、パリ行き』の系譜に連なる実話系「市井の英雄モノ」なんですけどね。この3作のなかでもちょっと群を抜いて出来の作品と言わざるを得ない。
アトランタ五輪中の爆破テロ事件で、爆弾を発見した警備員リチャード・ジュエルの話ですけどね。まず、主演がポール・ウォルター・ハウザーw もうこの目の付け所が優勝っていうかさ。あの『アイ・トーニャ』で超越的に頭おかしいオジサンを演じた彼ですよ。もう『フルメタルジャケット』をもしリメイクするなら「微笑みデブ」は彼しかいない!っていうあのビジュアルのインパクトと抜け感ですよね。
んで、あいも変わらずイーストウッドの異常なまでの手際の良さですよ。驚嘆に値する。開始10分でリチャードと、サム・ロックウェル演じるワトソンの絆を描写してしまう。当初の距離感の遠さからこの絆の演出のリズムの良さは異常ですよね。
もうこの映画全体に言えるんですけど、終わった瞬間「完璧だ...」っていう。とにかく一言で言えば、この映画は「過不足がない」ということに尽きる。端折れや!ってところも、描写が薄いな...というところもない。もっと「こう撮れば」とかもない。毎回言ってますけど、もうイーストウッドは映画の神の領域に達してると思います。ありえないことだよ。
で、この映画が先ほど挙げた近年の作品と差をつけている点なんですけどね。圧倒的な社会批評性を持っているというところですね。
ともすると「え?なんで今更96年のテロ事件でバッシングされた警備員の話なの?」って感じですけど、いやいや。映画を観てみると「あぁ、これは2020年の今の社会に対して非常にアクチュアルな映画だわ...」とビビらざるをえない。近年で言うと『スリービルボード』を観たときの衝撃に近いっすね。
まず、市井の英雄モノっていうのはイーストウッド十八番の作風ですよね。おそらく彼なりの保守としての立場なんだけど、立ち位置が実に絶妙でね。「偉大なアメリカ的精神は市井の、名もない人の些細な、実直な行動によって顕現する」というスタンス。ネトウヨみたいな声高なナショナリズムとは一歩距離を置きつつもなお、アメリカ的な精神に一縷のシンパシーを抱かせるっていう見事さ。「リベラルがリベリべラルラル言ってるのはいいけど、俺はこう思うよ?」っていうね。もう毎回の作品が死にゆくアメリカの遺言になってるっていう。
素朴な善き行動をする人間の姿が本当に美しい。んで、それに対する人々の態度ですよね。『ハドソン川の奇跡』なんかではどちらかというと機長個人の孤独を掘っていくスタイルでしたけど、本作は「バッシング」を描くことによる社会批評があまりに見事ですよ。
例えば、リチャードを追い込む最初のきっかけとなったなった人物のセリフ回し、「これは告発ではない」という。冒頭に挙げた騒動は言うに及ばず、いかに今の社会で「いや、これはバッシングじゃないよ?個人の感想ですわ。」っていうものがあるのか。なんならSNSなんかでの「つぶやき」に過ぎない正論じみた「個人の感想」が束になったとき、いかに当事者や関係者がスポイルしてしまうのか?というさ。完全に現代性を持った話として成立してますよ。
この映画、FBIや女性記者の描き方の歪さが議論になってますけど、それすらも見事でね。勧善懲悪のストーリーを越えてる。FBI、女性記者たちの着地点を観てもそれは明らか。そら映画的なカタルシスという面で言えば、彼らはそれなりの罰を受けて、我々観客の溜飲を下げてほしい。しかし、そうはならない。誰も責任を取る描写がないことそのものが見事に我々の生きている現代を撮った映画になっている。
あとは余白が凄えわ。映画のなかでいくつか浮いてしまっている描写がある。なんならチェーホフの銃的な作劇のセオリーからすると、この映画にはいくつか発射されない銃が出てくる。でもそれらがなぜ浮いたままになっているのか?ということを考えたときの余白が突き抜けて素晴らしい。
序盤に張った2つの伏線、小道具をこの映画は回収せずに終わるけれど、その余白が何を意味するのか。これを読み解くと「イーストウッドって下手なリベラルより俄然リベラルな視座を持っていやがる...」とただ感心しますし、一方では中盤でFBIが録ったある証拠の描写。これも浮いたままですが、これを解釈すると「やっぱりイーストウッドはアメリカ的な善性みたいなものを信仰している保守だわ...」とも思わせるし、「描写しない」という選択をいくつかとることによって、この映画にどれだけの奥行き、ポリフォニーが演出できているのかという。途方もない演出スキルですわ。
この映画はリチャードという英雄の物語であるようなツラを被ってはいるけれども、最後、紙を受け取ったリチャードが「本当にこれで終わりなのか?」と執拗に訊く描写からも分かるように実はリチャードという純朴な善意を持った人間が、最終的にその純粋性を失ってしまう話にもなっている。
もうまとまりがつかなくなってますけど家宅捜索前の掛け合いも爆笑だしさ、女性記者のバーのシーンの照明のカラーとかさ、そのあと記事を出させるときにブラインドの影が女性記者の顔にかかって、それが意味するのはとかさ、プロファイルっていうやり方の問題とKKO問題とかさ。マジで語りきれなくてアレなんですけども。ただただ優勝ですよね。
イーストウッドの映画観るとき、遅れて劇場に入ってきたやつが大概俺の視界を遮るんだけど、なんなんすかね。いつも言ってますけど序盤にあれだけテンポのいい描写をするイーストウッドの映画で遅れて劇場に来る人間、何をやらせてもダメだし、映画観るの向いてないんじゃないでしょうか🤔
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