耶馬英彦

戦争と女の顔の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

戦争と女の顔(2019年製作の映画)
4.0
 この8月に広島で開催される原水爆禁止2022年世界大会に先立って7月に開かれた科学者集会で、和田賢治武蔵野学院大学准教授が「ジェンダー化する安全保障」と題する講演を行なった。
 講演の趣旨は、男らしさが軍拡競争を生むというもので、核兵器のような暴力装置に頼って安全を守ろうとする「男らしさ」は有害であり、平和の秩序を生むことはないという内容だ。
 実に正しい分析である。世の戦争は男のマッチョイズムが起こしてきた。プーチンやスターリンはその代表選手だ。個人でマッチョにのめり込むのは自由だが、国家を代表されたりすると困る。そういう連中は国家の名誉や尊厳といった実体のないものを崇め奉り、傷つけられたと言っては戦争を仕掛けるのだ。巻き込まれる国民はたまったものではない。

 自民党の政治家、特にアベシンゾーとその一派の連中は日本の名誉や尊厳をよく口にするが、表現の自由度や女性の社会進出といった民主主義の成熟度のランキングでは下位に低迷している。それは政府の姿勢に如実に現れている。取材に制限を設け、開示する文書は黒塗りで、テレビ局や新聞社に脅しをかける。これでは国民は幸せになれない。
 国家の名誉や尊厳はいらないから、国民生活をもっと安心で豊かなものにしてほしい。それが国民の本音だと思うのだが、選挙ではいつも自民党が勝つ。頑張れ日本、欲しがりません勝つまでは、非国民にはなりたくない、そういった意味不明の心理が未だに日本の有権者を縛っているのだろうか。
 国があるから国民が生きていけるのではない。国民が国家という共同幻想を共有し、統治を任せているから国家が成り立つ。公務員は国民から信託を受けた奉仕者である。だから役人はServant(奴隷)と呼ばれるのだ。

 大抵の女性は現実主義者だ。勝ち負けよりも生き延びることを優先する。そのためにはまず状況に慣れることだ。本作品のイーヤとマーシャは、戦場では暴力に慣れ、性行為に慣れる。そうして生き延びたのはいいが、何が残されたのか。彼女たちにはもはや何もない。みずからの無一物を悟って現実は虚無そのものだという境地に達すれば心の平安もあるかもしれないが、そこに至るには彼女たちはまだ若すぎるし、現実から離れられない。戦時を思い出させるような発作もある。イーヤの佇立癖、マーシャの鼻血だ。
 アニメ映画「この世界の片隅に」の主人公北條すずが、敗戦を告げる天皇のラジオ放送を聞いて慟哭した場面を思い出す。すずと同じように、イーヤとマーシャも、戦争を生き延びてしまった。すべてを失ってなお、生きていかねばならない苦しみ。せめて子供でも産まないと、この世との繋がりが何もなくなってしまう。

 マーシャはサーシャの母親に向けて真実を話す。サーシャが知らなかった事実だ。おそらくサーシャは話を受け入れることができないだろう。マーシャにはわかっていた。それでも真実を話す。それは多分、マーシャの優しさだった。
耶馬英彦

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