ナガエ

すばらしき世界のナガエのレビュー・感想・評価

すばらしき世界(2021年製作の映画)
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最近、世の中を見ていて、いつも思うことがある。

正解以外は、全部不正解になってしまったんだな、と。

こういう世の中になった理由を説明するのは簡単だ。人間は、ブログやSNSを手に入れ、誰でも自由に発信できるようになった。発信があれば、そこには当然炎上もある。敢えて炎上を狙いに行く者もいるが、世の中の大半の人は炎上を避けたいと思っている。炎上を避ける最も簡単な方法は、「誰も否定できないような正論を言い続ける」ことだ。「正論」というのは、それに反対する者を愚かに見せる効果もある。つまり、反論させないために正論を言い、愚かだと思われたくないから正論に反対しない、という世の中が生まれる。

すばらしき世界だよ、ホントに。

この前テレビを見ていたら、お笑い芸人が面白いことを言っていた。話の流れとしては、「男は何故キャバクラに行くのか」というものだった。そして、「年長者は下の者を”嫌々”連れて行かなきゃいけないんだ」と言えば、それを受けて別の芸人が「連れて行かれる側も行きたくないんだ」という。そして最終的に、「キャバクラってのは、連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」という主張をして、女性から顰蹙を買っていた。

キャバクラの話はどうでもいいのだけど、この、「連れて行く人間も連れて行かれる人間も、どっちも行きたくないんだ」というのが、今の世の中っぽいと思った。正論を言っている人間も、歪んだ正義感を持っていて心の底からそう考えて発言している人も中にはいると思うけど、大半は、別に言いたくて正論を言っているわけではないと思う。そして、正論に反対しない側の人間も、本当は相手の主張がおかしいと思っていて反論すべきだと考えているけど、しない。なんだかさっきのキャバクラの話みたいじゃないか。「誰も行きたくないのにキャバクラが成り立っている」というのと、「誰も望んでいないのに正論がはびこっている」というのは、状況として似ていると思う。

正論が強くなればなるほど、世の中はどんどん歪んでいく。例えば僕は、「◯◯ハラスメント」という言葉が好きではない。もちろん、本来的な意味で使われている場合はいい。僕は「ハラスメント」という言葉は本来的に、「何らかの形で格差が存在する者同士」でしか成立しないものだと思っている。だから、「セクシャルハラスメント」や「アカデミックハラスメント」や「パワーハラスメント」は言葉の使い方として正しいと思っているし、世の中から根絶すればいいと思う。

しかし、「ハラスメント」という言葉がどんどんと市民権を得るようになったことで、「ハラスメント」って言えばなんでも成立するみたいな正論感が出てしまっていると思う。今、多くの新しい「◯◯ハラスメント」が登場しているが、それらのほとんどは「格差が存在する者同士」ではないと思う。例えば、みんなで食べるものに無断でマヨネーズを掛けることを「マヨハラ」などと言うらしい。しかしこれは、格差の問題ではなく、嫌だと言えるかどうかという性格の問題だ。僕自身も、他人がしている事柄に対して「嫌だ」と言うのは得意ではないから、気持ちは分からないではないけど、でもそれを「ハラスメント」という言葉で包んでしまうと本質が見えなくなってしまう。

世の中にはこういうことが多いなぁ、と思う。正論が日々可視化されることで、「正論が正しい」という思い込みが強くなってしまい、いつの間にかそういう方向に考えが引っ張られてしまう。一方で、何か発言をして目立ちたい人間は、そんな正論を正面から叩いてみればいい。炎上するだろうけど、正論にうんざりしている人間は常に一定数いるから、「よく言ってくれた!」という声も当然上がる。そうやって、「正論を言う人」と「正論に噛み付く人」と「何も言わない人」がするすると分断されていく。

そういう世の中は、どんどん不寛容になる。「正論を言う人」は「正解以外は全部不正解です」と言って、僅かなミスも許容しない。「正論に噛み付く人」は、「この人はどうせ正論に噛み付くだけの人だし」という受け取り方をされるために、自分を受け入れてくれる狭い範囲の人間しか許容しない。そして「何も言わない人」は、何か言いたいことがあっても普段は抑圧しているが故に、分かりやすい悪を叩いて(つまり許容しないことで)発散する。

そんな世の中に、元犯罪者の居場所はないだろうなぁ。

長澤まさみは、この映画の中でほんの僅かしか登場しないけど(ほぼ、予告に登場する場面で全部と言っていいくらい)、しかしなかなか印象的なセリフを言う。

【今ほどレールを外れた人間に厳しい社会はないと思う。レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていないから、なおさらレールを外れたくないし、レールを外れた人間を許容しない】

大体こんなようなことを言っていた。まあ、そうだなと思った。

「レールの上を歩いている人間だって、誰も幸福感なんて感じていない」っていうのが、本当に今の世の中を的確に表わしていると思う。さっきのキャバクラの話みたいだ。レールの上を歩いている人もレールから外れた人も、誰もレールの上なんか歩きたくないのに、誰もがそこを歩かなきゃいけないと思っている。

映画の終わりの方、介護施設での描写は、短い間に見え方が二転三転する非常に複層的な場面だと思ったし、語弊を恐れずに書けば、全員不正解だな、と感じた。でもじゃあ、自分がそこにいて、正解を掴み取れるかと言えば、それも無理だろう。

ほら、すばらしき世界は、こんなにも無理ゲーなのだ。

内容に入ろうと思います。
私生児として生まれ、幼い頃に母親と別離、少年院などを出入りし、平成16年に殺人事件で懲役13年を求刑された三上正夫。旭川刑務所で刑期を満了し、身元引受人になってくれた弁護士の助けを借りて東京での暮らしを始めた。「反社には例外なく生活保護は下りません」と役所で言われたり、運転免許証は失効しているのでゼロから取り直しですと通告されたり踏んだり蹴ったりだが、彼は「今度ばかりはカタギぞぉ」と、真面目に生きる決意をしている。
テレビの制作会社を辞め、小説を書いている元ディレクターの津乃田は、やり手のテレビプロデューサーから仕事をしないかと誘いを受ける。彼の元には「身分帳」という謎のノートが大量に届く。身分帳というのは、刑務所に入る人間が必ず記録されるもので、出生から刑務所内のことがすべて書かれているものだ。通常、受刑者が見れるものではないのだが、その男は受刑者の権利として、その身分帳を書き写す権利を勝ち取ったのだという。三上である。三上は、母親を探してほしいとテレビ局に話を持っていき、自身の履歴書として身分帳を送ったのだ。津乃田は、放送に耐えうる素材ではないと難色を示すが、プロデューサーは、だから面白いんじゃないかと津乃田を焚きつける。
三上は、13年ぶりの社会で様々な苦労をしながら、少しずつ人間との関係が生まれてくるようになる。しかし一方で、真っ直ぐすぎる性格故に、三上の正義感は暴力という形で表に出てしまう。そのために、危うい場面も何度か出てくることになる。一方、三上の身分帳に目を通し、三上本人とも接触し関わりを持ち始める津乃田は、取材対象としてやはり難ありと感じつつも、何か気になる部分もあり、三上との関係を細々と継続させていくことになる…。
というような話です。

善悪が非常に分かりにくい映画で、すごく良かった。映画や小説って、善悪が分かりやすくなればなるほど、物語は分かりやすいけどつまらなくなるし、善悪が分かりにくいほど、物語を受け取りにくいけど面白くなる気がする(あくまで僕の場合は)。この物語では、悪は偏在している。もちろん、見た目には明らかに、元殺人犯である三上が悪に思える。しかし、社会が許容するかどうかは別として、三上の行動は基本的に正義感によるものだ。もちろん、どれだけ正義感に下支えされていようが暴力や犯罪はダメだ。そこは揺るがないが、しかし、じゃあ正義感がない人間の方がマシなのかと言うと、YESとは言いたくない気分もある。

この点は、映画の中でも非常にファジーで、観ている人の価値観次第で様々な受け取り方がされるだろうと思う。

予告でも流れている場面だが、長澤まさみが「あんたみたいなのが一番なんにも救わないのよ」と激高する場面がある。確かに、それも一理ある。一方、三上の身元引受人になった弁護士が、「本当に必要なもの以外、切り捨てていくしかない。すべてと関われるほど、人間は強くない」という場面もある。これもまた一理ある。ラストの介護施設での場面は全員不正解だと書いたけど、それはこの点で判断基準が揺れ動くからだ。

僕は、認めたくはないが、非合法的な方法でしか解決出来ない現実というのは存在していると思う。「ヤクザと家族」の感想の中でも書いたけど、そういう問題を解決する存在としてある意味合理的に社会に実装されていたのがヤクザという存在だったと僕は思っている。非合法な手法を許容したいわけではないが、しかし、非合法な手法を一切排すると、世の中は明らかに歪む。例えば学校で、教師が生徒に手を出したりすることが出来ないことをいいことに教師をおちょくったりいじめたりするようなことが現実に存在するだろう。誤解されたくはないが、別に体罰を許容したいわけではない。けど、「非合法な手段だって取るかもしれないぞ」という雰囲気がゼロになってしまったら、解決できたはずのことも解決できなくなるのではないか、と思うのだ。

そういう意味で、僕は、三上のような行動を完全には否定しきれない。もちろん三上は、もうちょっと落ち着くべきだと思う。あまりに短絡的すぎる。しかし、非合法な手段をゼロにすべきではないという僕の考えに沿うとすれば、三上のような存在は排除してはいけない、と思う。

三上のような存在を拒絶することは簡単だ。あまりに簡単だ。でもそれは、「正論を言う人」も助長させるし、「(普段は)何も言わない人」に理由を与えることにもなる。あまりにも簡単だからこそ、たぶん僕たちは立ち止まってみるべきなのだと思う。

ハクスリーの「すばらしい新世界」は、あんまりちゃんとは覚えていないけど、工場のようなところから人間が生まれ育ち、生まれながらに職業が決まり、快楽だけを追求するような世界であり、一見するとそれはユートピアであるかのように描かれている。しかしそんなわけがない。明らかにディストピアだ。そして僕たちも、「全員で行きたくないキャバクラに行く」みたいに、望んでもいないのにみんなでディストピアに突き進んでいるんだと思う。一人ひとりは、自分の人生が良くなることを願って発信しているのに、その積算がディストピアを生み出している。

その奈落に、全員で手を取り合って落ちていかないようにするためには、全員で立ち止まって、正論を手放す勇気を持つしかないのではないかと思う。
ナガエ

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