ナガエ

プラットフォームのナガエのレビュー・感想・評価

プラットフォーム(2019年製作の映画)
-
いやー、久々にかなりイカれた、ぶっ飛んだ映画だったなぁ。ざっくりした設定だけ知った上で観に行ったけど、確かに設定の時点で結構ヤバさを感じてはいたけど、中身はその予想を遥かに凌ぐヤバさだった。

まずは内容から。
主人公のゴレンは、ある部屋で目覚める。正方形の部屋の中央に、正方形の穴。そして、上を見ても下を見ても、同じような階層が永遠と連なっている。壁には48という文字。普通に考えれば、少なくとも上に47の階層があり、下にはどれぐらい続いているか分からない。
部屋にはもう一人、老人が。トリマガシと名乗るその男は、もうここに1年もいるらしい。状況が理解できないゴレンに対してトリマガシは、この<穴>の仕組みを伝える。階層は一ヶ月ごとにランダムに変わる。中央の穴の上階から、食い物が乗ったエレベーターのようなものが降りてくる。上階の人間が残した残飯だ。食べるものは、これしかない。食べ残しなど食えるか、と当然考えるゴレンは、初日は食い物に手をつけない。しかしトリマガシに食べないのかと催促され、キレイに残っていたリンゴをとりあえずポケットにいれる。後で食べようと思ったのだ。しかし、それは許されない。食い物は、エレベーターがその階層に留まっている間しか食べられない。食い物を確保すると、部屋が灼熱か極寒になるよう設定されているのだ。
48階はまだマシだ。トリマガシは、132階にいたことがあるという。そして、下にはまだまだ続いていた。132階ともなると、食い物はほとんど残っていない。他に、食べるものはないにも関わらず。それでもどうにか、生き延びなければならない。
エレベーターに乗って、下に行くのは自由だ。様々な理由から、下の階層を目指す者もいる。しかし、上に行く方法は基本的には存在しない…。
というような話です。

何が凄かったって、かなり下層に落ちた時の描写。そこではもう、皿が舐め取られたようにキレイになっていて、食えるものは何も残っていない。水はあるが、食べるもの無しで一ヶ月過ごさなければならない。しかし、そんなことは不可能だろう。だったらどうするか…。答えそのものはここでは書かないことにするけど、まさかエロ以外でモザイクが掛かるとは思わなかったから驚いた。恐らく、元の映画にあったのではなく、日本公開に合わせてモザイクをつけたんじゃないかと思うけど、まあ確かに、フィクションだと頭では分かっていても、相当にハードなシーンだったのは確かだ。

映画は、リアルとファンタジーの狭間のような、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。リアルという点で言えば、あまりにもリアルなサバイバルが描かれているし、とはいえ映画全体の設定はある種の寓話のような感じがする。

映画は、誰もが想像できるように、現代社会への皮肉を核として描き出しているのだと思う。富める者が多くを手に入れさらに富み、貧しい者はほとんど何も手にすることができずさらに貧しくなる。非常に無機質で人工的なこの<穴>は、現代社会から様々な虚飾を剥ぎ取って残る骨格のようなものだと思う。基本的に階層ごとに交流は発生し得ないことや、交流が発生する場合、それは争いとして結実する場合が多いなどの描写も、非常に現代的だろう。現代社会と<穴>の最大の違いは、階層が一ヶ月ごとにランダムに変わること。そしてこの設定があることでさらに、人間の愚かさみたいなものが浮かび上がる仕掛けになっている。

現代社会では、人間の階層はほぼ固定されてしまいがちだ。それは、教育や労働のチャンスみたいなものが、お金があるかどうかに大分左右されてしまう世の中だからだ。確かに、例えば今ならYouTuberになって一発当てるみたいな成り上がり方はある。しかし、よほどのことがない限り、今いる階層から大幅にジャンプアップすることは難しい。

しかし<穴>の場合、先月は132階でも、今月は8階ということもあり得る。自分の努力がまったく反映されない一方で、まったくの偶然によって上位に行ける可能性が誰に対しても(恐らく)平等に与えられている。

さて、自分がそういう環境にいるとしよう。どういう行動を取るだろうか?頭で考えれば、誰だってこう考えるのではないか。今自分は8階にいる。上から降りてくる食い物を、下層のことを考えずに食べたいだけ腹いっぱい食べることはできる。しかし、来月になったら132階に落ちるかもしれない。そうなった時、何も食べられないのは困る。だったら、8階にいる今、自分が節度を持った行動を取れば、下層まで全員に食い物が行き渡るのではないか…。

頭で考えれば、これが一番合理的な方法だ。全員が同じように考えるならば、毎月どの階層に振り分けられようが、さほど大きな差の無い生活を送ることができる。

しかし、やはり実際にはそうはならない。恐らくこの映画の描写は、ゲーム理論的な知見も含まれているように思うけど、ゲーム理論には、全員が全員にとって良い選択をすれば全員が損せずに済むのに、自分ひとりの利益を追求しようとすることで全員が損をする、というモデルが存在する。何故そうなってしまうかと言えば、自分以外の人間が、全員にとって良い選択をするということを信じきれないからだ。

<穴>も同じだ。<穴>の住人全員が同じような選択をすれば、全員が長期に渡って利益を得られるのに、他の住人がそういう選択をするとは信じられないが故に、結果的に長期的には不利になることが分かっていて、短期的な個人的な利益を追求する行動を取ってしまう。

映画の中で一人、自分に出来る範囲で(つまり、すぐ下の階層の人間への依頼という形で)、全員の利益を共に追求しようと呼びかける。しかし、すぐ下の階層とさえ、上手く連携を取ることができない。僕も<穴>にいなければならなくなったら、理性的には行動出来ないかもしれないけど、他人事だと思ってみるとやはり、人間の愚かさみたいなものを感じざるを得ない。

主人公のゴレンは、めくるめく環境の変化に翻弄されるが、翻弄されっぱなしでもない。彼はある決断をし、自らの行動によって状況を変えようとする。最終的に彼の行動がどういう結末を導いたのか、その辺りは上手く理解できなかったけど、僕の予想ではたぶん、キリスト教だとか何かの神話みたいなものを重ね合わせた描写がなされているのではないか、と思う。後半は、「◯◯は伝言になり得る」という言葉が頻発するのだけど、恐らくこれがキーワードなんだろうなぁ、と。だから、結末をどう解釈したらいいかというような僕にはなんとも言えない。

<穴>とは一体なんなのか、主人公を含めた住人たちは何故ここにいるのか、管理者の思惑なんなのか、時折挿入される料理を作るシーンは一体どういうことなのか。こういう疑問にはっきりと答えてくれるような場面はなく、観る側が想像力で補わなければならない。そういう読み取りの力が高くない僕としては、若干モヤモヤする部分もあるのだけど、全体的には、非常に斬新で面白い映画だと感じました。でも、グロいのが苦手な人は止めた方がいいと思います。
ナガエ

ナガエ