せいか

『ワナジャ』のせいかのレビュー・感想・評価

『ワナジャ』(2006年製作の映画)
1.0
8/9、Amazon videoにて動画レンタル、字幕にて視聴。ところどころ字幕の具合に不安ありな気はする(訳に問題がとかは私にはわからんけれど、なぜか混ざるハングルとかそんなんです)。

英Wikipediaいわく、
「Vanaja is a 2006 Telugu-language drama film written and directed by Rajnesh Domalpalli on a story that constituted his Master of Fine Arts thesis at Columbia University. The film was made on a shoestring budget using a cast of non-professional first-timers for two and a half months.」
とのことで、アメリカの美術系大学に提出した論文?を基に短期間かつ低予算、役者もアマチュアを揃えて製作したものとのこと。

個人的にインド映画はいかにも国内外の大衆受けを狙っているものよりもインド社会をシリアスに捉えたもののほうが好きなので、それもあって本作も観ることにした次第。
本作はやや粗が目立つところはあって、ストーリーラインは至極シンプルなんですが、結構頭の中で補って観ることになるところはある。
佳作みたいな惜しさがある。

本作は低カーストの中でもさらに貧しい境遇にある少女が主人公で、概ね彼女が生きる環境は酷いものである。冒頭ではそれでも学校に通ってはいたものの、教科書すら買えない彼女を女教師は同情せずにむしろ冷たく当たっているのも印象的である。

彼女は世間を生き抜くという意味ではそれなりに賢さがあり、生きることに対して躊躇いがない。だから周囲の人間や自身の赤ん坊も利用するし少女なりの姦計も図って何とかやっていくし、彼女はそうするしかないのもある。踊りに憧れて、屋敷勤めついでにそれが学べるように地元の有志である女主人の家に勤めるようになってからもそうして自分でその当てを作っていく強さがある。ただしまだ10代半ばの少女の反抗期的な態度と気丈さがまぜこぜにもなっていて、それが痛々しく不格好でもある。
たぶん勉強面でも真っ当に機会が得られたらそれなりのものは身につけられただろうし、踊りも、彼女の我慢強く取り組む性格ゆえにそれなりに上達して女主人に少し褒められもするけれど、どちらの才能も結局は特出して秀でてはおらず、またそこまで伸ばされもせず、天才というわけでもなく、ラストの時点では彼女は結局は何も身につかないまま、低カーストの身分でなおかつ傷物にもなって親もなく生きていくことになる現実がある。唯一、友人に良い子がいるのが救いではあるけれど。彼女のずる賢さも精々が浅知恵に近く、這い上がれるものでもない。
終盤近くでドゥルガーがマヒシャを討ち取る場面を踊るときに彼女の煮え立つ怒りが感じられるけれど、彼女の踊りはきっと赤子を孕んだときのブランクで容易に忘れられたように、またそういうものになるのだろう。そうなるしかないのだろうから。
とはいえ、彼女はこの泥水の世界の上で人生を踊り続けるしかないということでもあるのだと思う。喜怒哀楽の全てを、特に怒りを込めて。彼女は何もかも成熟する前の不完全な状態で世間に揉まれ、無茶苦茶になったまま放り出されもした。飼いならされるのも嫌だが、何の力もない。押し寄せる現実の波を終盤はひときわ感じさせたまま終わりもする。親友と象に乗って移動して共に歌う牧歌的な終わり方ではあるが、行く先に希望を感じられるかと言われると私は全くそうは思わなかった。

町の有志の女主人もそうだけれど、あくまで相手が低カーストであるから最初から最後まで距離感を持ちつつ、確かな差別はしつつも、それでもかなり親切には振る舞っていて(何があっても雇ってくれたし、また踊りだって教えてくれていた)、息子がアメリカから帰ってさえ来なければ、もう少し主人公は安寧を得られていたのだろうし、踊りでももう少し何かを得られていたかもしれないので、そこも残酷だなあと思った。
息子もアメリカに渡って世界を見ていても結局はめちゃくちゃカースト人間であり、インド社会の男尊女卑思想もあり(母親には逆らえないが)、主人公に恥を掻かされるや、彼女をレイプする卑劣漢でもある。とはいえ彼女のことを悪くは思っていないようでもあるけれど、そこはカーストの問題もあるので深くは入りこまず、ただ遠回しに彼女を側妻のようにしようとはするくだりはある。親子を通して彼女との接し方に見られるのはカーストの壁で、それがあらゆる親しさを素直に曝け出せなくするし、そういうものであるという固定観念もある。

レイプでできた子供にこの金持ち親子が揃って執着するのも些か以外だったけれど、それゆえに主人公はその伝手で(たぶん心からは愛していないだろうけれど、全く執着がないとも言えない)赤子への執着を演じてみせてまたしばらく食い扶持と踊りのために屋敷に勤めたりなど、なかなか壮絶である。仮に息子が上位カーストの女性と子供を作ったらどうなるんだろなと思うばかり。
ちなみに、作中で赤子の肌の白さにこだわっているのは、カースト上位の人々は肌がより白いほうを好むという傾向があるため。黒ければ黒いほど卑しい生まれが表れているようで、要はそれを指摘してあんなにも拘っていたのであるし、それがまた彼女の存在を否定して押し潰す言葉にもなっていたわけである。

作中で、貧しさに呑み込まれてそこから何らかの力を発することも諦めきった主人公の父親が、彼女に対し、なぜおまえはそんなに強いのかと問われるシーンがあるけれど、あれもたいぶ残酷なのだなあ。のしあがろうとする凡人の彼女の奮闘が「強さ」として切り離されて評価されてる感じ。強いから毅然として世間と立ち向かっているという話にされている感じ。そうじゃないよな。

ワナジャはたぶん蓮の花かその辺の意味の名前のようだけれど、泥の上に咲く花のその気高さ、神々しさを描いたというより、あまりにもその茎の伸びる泥のほうに意識がいく話だった。主人公ワナジャはある種の気高さはあるけれど、救いはない。遠目に愛でられるだけで捨て置かれる女なのではないか。そして彼女自身はそれでもやはり不格好にこの世を生きていくのだろう。

とはいえ、やはり全体的に説明不足というか、伝えたいことはこうなんだろうとはわかるけれど、それを作品の中できちんと昇華できていない部分が目立つのが残念だった。そこを突き詰められたらこの佳作感から脱せるのだろうなあ。
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