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第七の封印のKuutaのレビュー・感想・評価

第七の封印(1956年製作の映画)
3.9
黙示録的な世界観で、光と影、演劇的なモチーフを通して人間の生や不安を描き出す。ベルイマンらしさが一通り入っている印象。

・ペストで死ぬ男、魔女狩りに遭った少女、不倫した男。いずれも、演劇性を強調するように木のフレームの中で死が描かれる(偽装自殺のショットでは木は出てこない)。聖母マリアの幻影も木の内側に現れる。

→生と死、光と影が混在する白昼夢のような(スウェーデン的な)日常から浮揚するには、映画的に演出された虚構が必要だという事。

・ミルクや酒から溢れ出る生命力。冒頭の海の撮影が素晴らしく、生と死の境界が鮮烈に描かれている。

・目的を失った十字軍、それを指揮した堕落した神学者、自ら鞭打つ集団と、観念的な教えでは神は掴めない。「恐怖を偶像化し、それを神と呼ぶ」。暗闇は死であると同時に神でもである。

→様々な死を目撃した挙句、結局夫婦の話に戻ってくるのもベルイマン的だ。画面内の影の量によって死との距離感が分かる明快さが魅力的な今作。主人公たちは真っ暗な邸宅に逃げ込む。

来訪した「死」の側にカメラを置き、「死を見る人」の表情を取り続ける。「鏡の中にある如く」で、神が室内に現れる場面と同じ演出。

今作は死が擬人化、可視化されている面白さがあるのだけど、主人公たちが死に飲み込まれるこのシーンだけは木のフレーム無しで引っ張り込まれる。演者と鑑賞者、生と死の間で引いてきた一線が崩れた?

眼前の死に対し、主人公は後ろで輝く光から目を背ける。現世に絶望しているように見える少女は、顔の半分に影がかかると、目を閉じる。つまり、自ら完全な暗闇、死を受け入れて救済される。

そこで画面がフェードアウト。顔の位置はそのまま、旅芸人の妻が明るい空を見上げるカットに繋がる。一家は太陽に向かって歩いていく。

→少女と妻は表裏一体。神は生と死、光と影、二つの顔を見せている。無垢な赤子を抱く妻の名前はミア=マリアとキリストのイメージか。

・主人公の「同伴者がいるから憂鬱な顔をしている」というセリフ。「同伴者は誰か?」との問いに「死」と答えるかと思ったら「自分自身だ」と答える。自分の内にある死を受け入れているし、神の存在にも気づいているのでは。79点。
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