レインウォッチャー

第七の封印のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

第七の封印(1956年製作の映画)
4.5
死と踊ろう、今こそ!

まあ今作の敷居の高さったらない。
タイトルからして何やら仰々しいし、ベルイマンのネームバリュー(=オタクがうるさそう)や、50sのクラシック映画だということ。

そして極め付けはこのジャケ写である。「白塗り黒マント通せんぼ」て…観させる気あるんか。
かつて『地獄先生ぬ〜べ〜』にこんな敵がいたのを思い出す。いったん鬼の手でどつかれて出直してほしい。

この映画の歴史的価値とかは詳しい人がいくらでも他に書いているので、わたしなんかが今更その末席を汚すことはできるだけ避けたい。
ここではいかに敷居を下げて、たまたま目に留めてくださったうち一人でもたくさんの人に軽い気持ちで観てもらい、ゆくゆくブルーレイBOXを再発させるか、ということを目的にしたいと思う。BD画質で隅々まで観たいねん(私欲)。

まず一言でまとめるなら、これは「笑いあり涙あり珍道中」的ロードムービー、です。

仕事に疲れて生きる目的を見失った男が、おうちに帰る途中で死神(=白塗り黒マント)に捕まる。いやーさすがに死ぬのはちょっとなー、とかうだうだしてるうちに、道中でさまざまな人々と出会って連れ合いとなる。芸人や倦怠期夫婦、美少女メイド、果ては魔女の嫌疑で処刑される女まで…

確かに世の中は戦疲れ+流行り病(ペスト)のコンボで、マッドマックス待ったなし状態。末法思想に染まったセルフSM教団みたいなのが闊歩してたりする。
それに、主人公が陥っている信仰の揺らぎは、遠藤周作の『沈黙』とも似た永遠に答えのない問いを発しているようだ。

そんな「死」とか「神の不在」を引きずっていながら、旅の一行は必ずしも暗く沈んでばかりではない。彼らはこんな世紀末であっても庶民らしい生活を送っていて、その振る舞いには人生の喜怒哀楽がぎゅっと濃縮されているようだ。

あれこれ難しく悩んでいる主人公に比べて、「気にしてもしかたねーっスよ」と言わんばかりにあっさりしている従者ヨンスの姿が対照的。彼はコミュ力高く、とりあえず目の前の人を義を持って助けることを優先する。そこには、最後に残る人の美徳のようなものすら見ることができるだろう。

そして死の存在だけれど、この映画を観ると死に恐ろしさよりも身近さを感じてしまう。

この死神、いかつく見えてどこか人間味がある。寄ってみれば、目もくりくりしててちょっとかわいい。
チェスに目がないゆえに死の期限をついつい伸ばしちゃったり、樹上の人に死を与えるために何をするかと思えば必死でノコギリギコギコ。物理なの!?
その駆けつけ現場主義な姿はどこか外回り営業でノルマに追われるリーマンを思わせ、涙を誘う。

懺悔室での主人公との問答は、神の存在に対する有史以来の問いをTikTok並のサイズ感にまとめたような超絶名シーンだが、ここでもなんだか「とりあえず話はできる奴」のように扱われているように思える。

そう、神が沈黙している間も死は大忙しで、よっぽど人間に近い存在なのだ。冒頭で死神が主人公に言う、「いつも隣にいた」という言葉は間違っていない。
どう死ぬか、死をどのように位置付けるか、には相談や準備の余白がある(むろん、理不尽に突然訪れる死もあるけれど)。
転じて、それは今日どう生きるか、につながるわけで、ここにあるのは確かに一つの希望のかたちなのだ。神を信じることすら頭ごなしには否定しておらず、どこまでも懐が深い。すこし大回りな人生讃歌だ。

はっきりコメディといえるような時間もあって、でもやっぱり哀愁が常に共にあって…と、さすがウディ・アレンがフェイバリットに挙げるだけのことはある。
それに、わたしたちの国にも落語の『死神』があることに親近感を覚えてみたり。あれも死と取引・駆引する話で、似た精神性が宿っているかも。

なんだか劇中の世界は昨今の情勢と重なるところもあるな、と思ってしまうのだけれど、実はむしろどんな時代にもハマる全天候型映画なのではないだろうか。
なぜなら、死はいつでも小うるさくも憎めない隣人としてそこに居るのだから。アジャラカモクレン、また明日。