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カモン カモンのotomisanのレビュー・感想・評価

カモン カモン(2021年製作の映画)
4.1
 ジョニーはジャーナリスト。社会問題を抱えた地域の子供たちの発言を得て子供個人の悩みから地域の課題、人間世界の課題を炙り出し、将来の不安と展望、希望のかけらまで引き出す。もちろんジャーナリストだから自身の意見に沿った取捨選択はあるだろうが、それを子供の声でラジオで流してリスナーへの説得力を強めている。
 社会につながってゆく子供たちを数多く見てきたであろうジョニーだから、自分の甥っ子9歳へのアプローチも簡単かと思いきや、我が魂を揺さぶる質問を投げかける甥っ子ジェシーにたじろがざるを得ない。しかし、この9歳の変人はどこか異常臭い。妹夫婦の下で彼には何が起きているのか?ジャーナリズムの肥やしとしての「社会とジェシー」どころか、ジェシー自身、一個人の存立さえ危うく感じられたことだろう。

 一面、はきはき言いたいことを言葉巧みとすら感じるほどに表す早熟児的ジェシーだが言動の独特さは精神鑑定の必要が、あるいは彼の将来について悲劇的敗北死の想像がレクイエムの「Death」の響きとして頭をよぎる水準にも見える。だがそれは、雰囲気よりは常識的なジョニーとの交流を通じて、次第にエキセントリックなふた親との交渉から、あるいは彼らに感化されて編み出されたジェシーなりの極端化した対大人接触術の表れの氾濫とも思えるようになる。
 親への愛慕も疎ましさも彼らのエキセントリックさを掛け合わせればどのような表現型を示すやら、それがジェシーの今であるとも思える。それがNYCへ、ニューオーリンズへと伴われる事で何か陶冶されるのか、一層困惑を募らせるのか?きっと脚本家だって分かって書いてはいないだろう。

 ジョニーの取材地、デトロイト、NYC、ニューオーリンズはそれぞれ、経済も人心も荒廃しきった産業城下町、強欲資本主義の陰影黒々な世界首都、災害と観光に食い潰された古都として住民は深刻な社会問題を抱えている事は合衆国民周知のところだろう。そこで自身に問題を抱え社会のはぐれ者を自認するジェシー9歳が巨大な社会問題とそれを支え切れない人々に接し、ジョニーの手引きを得たとしても、接触した経験がジェシー自身にとってなんの肥やしになるだろう?
 ただジェシーは、今以降よくない何に遭遇したとしても「先へ、先へ」進むしかないと、ジョニーが意見を採用した子供たちのかつて発した事がない類の事、実にあいまいなことを言う。これが標題の「C'mon, C'mon」なわけだが、将来の夢や希望ではなく、課題解決に向けた展望が見通せないとしても先へゆくしかないと、少なくとも自身の将来について、そう覚悟を決めねばならないことは分かったのだろう。そのとき、エキセントリックな親たちに我慢を重ねた経験が何らかの地力になるのだろうか?あの親以上に解明困難な問題多岐が絡み合った世界があることを知っても、こうしてビビらないだけでもめっけものなんだろう。
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