けー

アメリカの息子のけーのネタバレレビュー・内容・結末

アメリカの息子(2019年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

自分の中の偏見と先入観と、これまでの自分のレイシズム学習の理解度・習熟度を確認できる最適教材。

翌日に士官学校への入学が決まっている息子が深夜すぎても帰ってこず、電話やメールをしても返事がかえってこない。

そこに警察から息子が乗った車が事件に巻き込まれたようだと連絡があり、ケンドラは事情をききに警察に駆けつけるが、担当がくるまで何も言えないととりあってもらえない。

舞台を映像化したということで、ほぼ1部屋でドラマはすすむ。

授業でつかう教材であるかのようにWhite PrivilegeやImplicit Biasの例があらゆる場面で示される。

こういう場面でもそういう食い違いが起こるのかという驚きや、時にカサンドラがこだわりすぎているのではないかと思ったりする時もあるのだが、カサンドラは幼少期を治安の悪い地域ですごしているので過敏にならざるを得ないほどに似たような悲劇を繰り返し繰り返し目の当たりにしてきているのだろう。

男であり白人である制服警官とケンドラの元夫は悪気はないのだが恐ろしく無神経にやらかしまくる。

わかりやすくするために極端に描いているのだと信じたいところなのだが、もしも実際がこんな感じだとすれば、精神的にとてもまともではいられなくなりそうな気がする。


ご主人はアイルランド系アメリカ人。
大学時代に二人は恋に落ち結婚したようなのだが、暮らし始めてからご主人のImplicit Biasが発覚したようで、二人の仲は修復しきれないところまできてしまったようだ。

二人ともお互いをいまだ好き合っているようなのだけれど、Implicit Biasが大きな壁となって立ちはだかる。

行方不明の息子は会話の中のみに登場するのだけれども、彼らの息子が二つの価値観に引き裂かれていったありさまが徐々に明らかにされていき、もうそれが辛いのなんのって。

そして止めが終盤にでてくる担当刑事だ。

黒人の刑事で、非常に強圧的。

“黒人なのだから無事でいたかったらこうあらねばならない”と、そのことを幼い頃から息子にしっかりと叩き込まなかったカサンドラが母親としていたらなかったのだと責める。

もうなんだか「I can't Breath」というのは何も首を膝で地面に押し付けられたり、首を警棒できつく締められている状況を示した言葉というだけではないんだなと。

なぜ肌の色でそこまで押し込められなければいけないのか。

しかも、仮にカサンドラが息子をそう育てようとしても夫がそれを許さなかっただろう。
白人優位の価値観のままに息子を育て、Implicit Biasのせいで息子が直面することになるであろう恐ろしい現実に気がつくことができない。

どちらにとっても悲劇でしかない。

差別したいわけでもなんでもないのに、それに気がつくこともできない。
知らない間に大好きな人を傷つけ、そして危険な状態に追い込むことになっていることもわからない。

思うに、ここが難しいというか、”White Privilege"の一番のクセモノというか厄介なところは”White Privilege"というのは何も白人の人たちが露骨に黒人の人たちに対して差別を行う状態のことだけではないことだ。

“人種差別など言語道断”、”肌の色など気にする必要はない”と心から信じている、味方になってくれそうな白人の人達の中にひそむ”Implicit Bias”や、”White Privilege"の社会に順応できたというか価値観に根っから染まってしまっている黒人の人たちや私たち有色人種の中にある”Implicit Bias”の方が厄介な感じがする。

そこから生み出される問題の不理解からくる良識や善意とでもいうのだろうか、それがこの問題をすごくすごく見えにくいものにしている印象がある。


今こう書きながら、ちゃんと説明できているか自信がもてない。
なんとなくはわかるのだけれど、このことを理解するには例えるならばクレバスだらけの雪原をいく時のような慎重さで辿っていかないと、簡単に辿っていたはずの道筋とは違う道に入り込んでしまう怖さがある。

ここから感じる”憤り”は自分の偽善なのか、罪悪感なのか、それとも無知からくる誤解なのか常にそんな自問自答を繰り返しつつ、まぁ、私は物心ついたときから呑み込みの非常にわるい人間だったので、他の人たちにとってはもっと簡単なのかもしれないけれども。
でも、頭のいい人たちであっても陥る罠っぽいので、やっぱり油断大敵というか。

この短い期間の学習でも精神的にとんでもないアップダウンに見舞われている。
いっときは白人の人たちが全員怖くみえる逆人種差別に陥ったりした時期もあったり、ずっと見ていたのにその側面にどういうわけだか気がついていなかったことに気がついてひどい自己嫌悪に陥ったり、度胸もないのに義憤のような感情にかられたり、何かしなくてはという焦燥にかられたり、でも何かする度胸もなくてというあたりからもう考えるのも学んだりするのもやめようかと思ったこともなんどもあったけれども、それはそれで自分が嫌すぎて落ち込む感じで。

かといって全世界で起こるすべての悲劇にいちいち気を揉んでいたら精神的にもたねぇーみたに開き直ってみたり、なんというか国内で自分が住んでいる地域ではない地帯が大災害が起こったときの心境に似ているんじゃないかと思う。

で、そこはもう自分が今日も1日つつがなく過ごせた奇跡に感謝しつつ、その運の良さを思い切り歓喜して生きていくのでいいんじゃないかなとか。

でもその運の良さはいつも紙一重のところにあるということを忘れちゃいけないというか、普段忘れていたとしてもいざという時に思い出すことができるレベルでは心に留めておくべき事項というか。

「絶対的安全」や「絶対的安心」なんてそれこそ絶対に得られないもので、それを得られないからといってパニックになったらダメだなって。
恐怖心と戦うのは簡単じゃない。
というか、私は極め付け臆病なので、恐怖心を感じなくてすむことなど絶対ないのだろうともう諦めている。「怖いよぉーママぁーえええーん」と心の中で泣きじゃくってでもここぞというときに踏みとどまれる、または前に踏み出せる勇気を持たなきゃ....などと書きながら一方で「そんなの怖いからいやだなぁ」と長いものに巻かれよーがコソコソ隠れていようがとにかく生き延びられればいいじゃんとか思っていたりもします。

ええ、ええ、私は偽善者で卑怯者ですよー。
それが何か?


追記:
融通の利かない新人の制服警官がCWドラマ「スーパーガール」のウィンだったと知り大笑い中。ええー、全然気がついてなかった!!!

カーラちゃんとウィンのナードコンビぶりが大好きだったのに!

「スーパーガール」っていつもシーズン途中で見るのがしんどくなってくるんだけど、最終的にはいい感じに面白いっていう私にとっての謎ドラマ。今シーズンはもういいかぁとか思いながら結局見てるっていう(←どうでもよい)
けー

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