CHEBUNBUN

耳をすませばのCHEBUNBUNのネタバレレビュー・内容・結末

耳をすませば(2022年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

【何者にもなれない私は翳りなき過去に溺れる】
スタジオジブリの名作『耳をすませば』の「10年後」を描いた実写リメイクが公開された。本作の監督は、『約束のネバーランド』の平川雄一朗だったため不安を抱いていたのだが、予告編を観ると一転興味が湧いてきた。というのも、ポスタービジュアルやキラキラした映像では覆い隠すことのできない辛辣なテーマを扱っているようだからだ。アニメ版のラストでは、どこか閉塞感を感じている雫が小説家になろうと決心するところで終わった。つまり、「何者」かになる道筋を見出す物語であった。しかし、本作ではその道筋に沿って10年間歩んできたものの、成果が上がらず「何者」にもなれていない自分を他所に、聖司はイタリアで着実にチェロ奏者としての実力をつけていくのだ。確かに、振り返ってみればアニメ版の時点で、「何者」になるのかを決めるところで終わる雫と「何者」になるかを既に決めていてそれに向かって邁進する聖司とでは大きな溝がある。その深さに斬り込んでいくのが実写版なのだ。これが相当な地獄絵図だったのでネタバレありで語っていく。

本作は、アニメ版にあたる部分とオリジナルストーリーの部分を交互に行き来する構成となっている。アニメ版の部分は、なるべくアニメ版と同じ構図、同じセリフを語らせている。なので一見すると、現実感のないリアクションが目立つ。しかし、じっくりみると過去の描写において高度なギミックが組み込まれていることに気付かされる。アニメ版では、未来など何も決まっていない自由な存在である雫(清野菜名)が、団地の翳りに吸い込まれ、息苦しさに押し込められてしまう演出が多用されている。その閉塞感から抜け出す装置として猫に導かれ辿り着くお伽噺のような空間「地球屋」が機能している。

実写版ではこの団地パートが全てカットされている。そして、雫の恋愛の決定的瞬間を中心に挿入していく。その恋愛描写は、80年代後半から90年代青春映画を思わせる爽快でみずみずしい画の中で展開されていく。つまり、これは10年後の世界において過去を振り返った際にイメージとして浮かび上がる像なのである。アニメ版の中での雫は現実を歩んでいるため翳りがある。しかし、本作では「何者」にもなれずモヤモヤしている彼女の逃避先として過去があり、それは輝いているものなのである。

「輝ける思い出」を鎮痛剤にして、遥か遠い存在となってしまった聖司(松坂桃李)に恋焦がれる彼女。その横で、竜也(山田裕貴)と夕子(内田理央)は結婚の準備を進めている。小説を書き続けるべきなのか、恋焦がれる竜也の帰りを待ち続けるのかと悩み、仕事でのミスも合わさり潰れていく。「もうダメだ」と思い、強引にイタリアに行って彼に会うことを決意する。

ここからが地獄だ。聖司に会うのだが、明らかに空間がおかしいのである。彼はイタリアに馴染んでおり、ひたすら音楽に没頭している。未来に目が向いているのだ。一方、彼女は過去を引き摺ったままである。レストランでの彼女は必死だ。大きく離れてしまった彼に一歩でも近づこうと、アピールする。しかし、レストランでの振る舞いは観光客であり、必死さが醜態となり、彼は少し引いている。彼女自身もなんとなく分かってはいるのだ。でも輝ける思い出を捨てたら、「小説家になる」という希望を失ってしまう。聖司という信仰の対象も失ってしまう。だから怖いのだ。しかし、彼を愛する女が現れたことで、それと向き合わざる得なくなるのだ。

物語の9割地点まで、どこまで辛辣なんだと思うぐらい重い話となっている。しかし、映画は『巴里のアメリカ人』ばりの超展開でハッピーエンドを迎える。流石に、胸糞アート映画ではないので聖司が突然、日本に帰国し求婚することで円満解決するのである。

それにしても、あまりにも「何者」になろうとする者/なりかけている者の差から生じるヒリヒリした感覚への解像度が高い。現実から逃避するための「思い出」像の凶悪さは、アニメ版における団地の翳りに匹敵するものがある。この演出の妙にすっかり惚れ込んだのであった。
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