ナガエ

潔白のナガエのレビュー・感想・評価

潔白(2020年製作の映画)
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面白かった。事件の真相を追う、という物語だけだったらここまで面白くはなかったかもしれないけど、物語が「犯人探し」から転調し始めた辺りから(まあ、結構後半だけど)、俄然面白くなった。


主人公の弁護士がある場面で、「一体どうしたらいいの?」と嘆く場面がある。それまで主人公は、かなり厳しい状況に追い込まれても泣き言一つ言わず、表情も変えないでクールに事件に向き合っていたのだけど、その場面で彼女は初めて動揺を見せる。

その時点で彼女がどんな状況に直面していたのかは、内容的にかなりネタバレになるので書かないけど、確かに彼女と同じ状況に置かれたら、「一体どうしたらいいの?」と言いたくなってしまうだろう。

「正義」は人によって違う。でも、人によって違う、というところで留まってしまえば社会は成り立たない。だからこそ、法律や法解釈の基準などを設けて、ある程度以上客観的に「正義」を判定できるようにしている。

しかし、そういう仕組みが存在するからこそ、その公平さみたいなものから零れ落ちてしまう人も出てくる。どうしたって、「正義」の境界線は厳密には決められないし、その境界線の狭間のようなところに落ち込んでしまった人は、ほんのわずかなことで「正義」と「正義ではない側」が決してしまう。

この映画の着地点に対して、たぶんいろんなことを感じる人がいるだろう。どの視点に立つかで、この映画の結末は正解にも間違いにもなる。僕は、この結末を「正解」だと言いたい。これが、「正解」だと受け入れられる社会で、僕は生きたい。

内容に入ろうと思います。
有名弁護士事務所でトップ弁護士と活躍するアン・ジョンインは、金持ちの息子の弁護を嫌々ながらに任されるも、きっちりと仕事をこなした。しかし、もう同じ被告人の控訴審は担当したくない、と上司に断りを入れている最中、その事件の一報をテレビで知ることになる。
ある農村の主が亡くなり、葬式が行われている時のこと。大川市長を含む弔問客5人が、マッコリを飲んだ後嘔吐し、死者も出る事態となった。マッコリからは農薬が検出され、犯人として、葬儀の喪主である妻が逮捕された。
その妻は、ジョンインの母親だ。事件はまさに、ジョンインの実家で起こったのだ。ジョンインは幼い頃、鉱山を経営する父から暴力を受けるなど抑圧された環境におり、耐えかねて家族を置いて一人都会へと飛び出し、以来十数年実家には帰っていなかった。
事件を知り、急いで実家に戻るものの、彼女は事件現場で不審なものを感じ取る。何かおかしい。しかし事件は、警察による初動捜査がかなり雑に行われていたにも関わらず、母親の犯行であると確定しているかのような様相で、彼女は、元々ついていた弁護士の代わりに母親の弁護を担当することになる。
残念ながら母親は、事件の直前認知性を発症しており、自分を助けるために駆けつけた娘のことが認識できず、自閉症の傾向を持つ弟のジョンスを気遣う発言ばかりして…。
というような話です。

冒頭からしばらくの間は、「敏腕女性弁護士が、疎遠だった家族を救うために、事件の真相を探る」という、まあよくあるだろうなぁ、という展開を見せる。よくある展開だから悪い、なんていっているつもりはないのだけど、正直なところ、特段これというほどの惹き込まれ方はしていなかった。

事件の背後には、現市長を中心とした政治の腐敗があるようだ。まあそれも、よくあると言えばよくある話。

しかし途中から徐々に、なんかおかしいという感じになっていく。確かに、母親が犯行を行ったという明確な証拠は無いし、市長を含む被害者らがどうやらあくどいことをしていることも事実なようだ。でも、それだけではない、何かおかしな雰囲気がちらほらと感じられるようになっていく。

そして彼女は、自分の足で様々な情報を稼いだことで、事件の真相をついに明らかにするの、だが…。

この「だが…」の部分は書けないから、この展開が示唆する問題定期にも触れられないのだけど、知れば色々と考えさせられるだろう。「法律」だけでは「正義」を実現することができないと考えるか、あるいは「法律」で実現できるものだけが「正義」だと捉えるべきだと考えるか。

世の中には、明確に法律の一線を超えずに、グレーゾーンに留まりながら悪いことをしている連中もたくさんいるだろう。そういう人間を、「法律を犯していないから裁けない」と言ってしまうのはなんか嫌だ。同時に、明確に法律の一線を超えているが、その行動そのものを称賛したくなるような状況だってあるだろう。そういう人間に、「法律を犯しているから裁かれるべきだ」と言ってしまいたくもない。

社会を成り立たせるために法律に従うべきだ、というのはその通りだし、法律に対して理不尽や怒りを覚えるのなら変える努力をしなければならない、というのもその通りだと思っている。しかし、この映画で提示されていることはそういうことではなく、「なんらかの基準を設けて、その境界線で善悪を定めましょう」という仕組みでは救われない状況は一定数起こりうるし、そういう場合にどのような救済があり得るだろうか、ということだ。

僕はそういう場合には、公平さよりも、弱者の救済に振り切る世の中であってほしいと思う。
ナガエ

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