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明日は日本晴れのotomisanのレビュー・感想・評価

明日は日本晴れ(1948年製作の映画)
4.2
 国破れて山河在り。この山奥には米兵も焼け跡も闇市もない。あるのは動かないバスと戦争に疲れた乗客ばかり。
 敗戦で帝国の機関が止まったようにバスも故障で止まってしまうと按摩福市の勘働きに沸いていた車内は一変、復旧するのか自分の用事はどうなるかと騒ぐが動かないものは動かない。戻りの便とのすれ違い時に救援便を言伝るしかできることはない。

 エンコしたバスを乗客が押し進めた先は九十九折の街道が空に突き出した岬のような高台で見渡す限り山と河ばかり、国は破れバスはエンコしようと晩夏の晴れた山々はビクともしない。ただし、それはかりそめ、山河ばかりではバスの誰も生きられない。闇屋には汽車の時間が、産婆さんには赤ん坊が、年寄夫婦には結婚式の来賓の用事が待っている。
 急がない者にも誰かが待っている。旧軍の元司令官には戦没者が待っている。彼らの慰霊は元司令官にも慰めとなるだろうが戦争で片足を失った闇屋は戦争責任をもって元上官を詰る。それが何の足しにもならない事は百も承知だろうが、闇屋の10年も前の満州で両目の視力を失った福市に諫められるまで乱れる心は静まらない。
 ぎりぎりまで体を酷使するハンディキャッパーが腹を立てて何になるだろう。幸運にも通りかかった材木運搬車の丸太の山にいつもの勘と調子を乱し飛び乗り損ね怪我をするのが関の山、ハンデの大先輩、勘の達人の言うことには間違いがない。きっと、いけ好かない先客、イヤ味な占い師とだって折り合えるだろう。
 そしてもうひと方、この山奥街道を行きつ戻りつする街道渡世人の道太郎には心底待つ人はいない。いや、いつか戻ってくる事があるかもしれないとその姿を求めてこうしてバスの運転手を続けてきたのかもしれない。
 道太郎も応召し、彼女も家族の暮らしのため山を下りて6年、死んでしまったとも舞台人で成功し人の妻となったとも噂されたその人が今まさに目の前にいながら心はちっとも晴れはしない。まして彼女が寄せる好意は昔のままであっても、それに惹かれて東京へ何の面目あって赴けようか。

 こうしてみんなどこかに何かハンデを負っている。片足を、両目を、統率者の負い目を、将来を夢見た相手を、両親と街の思い出を。そういえば、あの我関せずの占い師は何を負っていただろう、税吏は何を負っていたろう。折り目正しい面々に混じった彼らにこそ空惚けや怒気をもって拒絶したい過去があるようにも感じられる。しかし、そんな事をみんな押しやるように救援車がやって来て都会の女も福市も連れ去ってゆく。
 やはり会ってはいけない二人だったんだろうか、エンコしたバスのお守りの道太郎と車掌娘の間に嵐を残して女は東京へ戻らねばならないが、これが生きることでもある。そこにもう一人、あの折り目正しい浮浪児が何を当てにするのか駅までゆくという。食い扶持のためならどこへでも行くらしい彼も、それが生きるためである。何かが後ろ髪を引くように後景を拾ってゆく。
 心のどこかで袖擦り合った同士この二人が親子になっちゃいななんて思う。しかし、そうはならないとは分かっている。嵐を挟んだバス守の二人もまたどうだろう。何でならないのか福市にだって見えはしまい。
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