レインウォッチャー

太陽がいっぱいのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

太陽がいっぱい(1960年製作の映画)
4.0
アラン・ドロン、こんなにも美しい男がいたのか。まずは誰もがそのことに打ちのめされることだろう。陽光を赤銅色に受け止める体、彫刻的な顔立ち、楽園を追われた蛇の知性が宿った瞳。

そんな彼が演じる貧しい出自ながらも密かな野心に燃える青年トムが、友人で金持ちの放蕩息子フィリップ(モーリス・ロネ)を殺し、成り代わって財産を奪い取ろうと画策する。今作は、表面上『罪と罰』的なピカレスクロマン風サスペンスとして観ることもできるし、十分に楽しい。

『罪と罰』のラスコリニコフとトムには共通点がある。いずれも、自分を特別な人間と信じている点だ。法の枠組みを超越すべき天才の存在を論じたラスコリニコフと同様、トムもまた「僕は頭が良いからね」と奸計の成功を疑わない。

しかし大きな違いもある。それは良心の呵責の有無だ。『罪と罰』は、老婆を殺したラスコリニコフが罪の意識に苛まれて押し潰されていく過程を中心に進行する。一方、今作のトムはフィリップの殺しを悔いる様子はあまり見られない。
事態を取り繕おうとかなりグダグダな嘘や罪の上塗りを重ねることになり、「徒労映画」の雰囲気も感じるが、どうにか乗り切るたびに自信をつけていくようにも見える。終盤も終盤、ほんのいっときではあるが「最高の気分だ」と呟く彼の顔はこの上なく晴れやかで、こちらもなんだか安心してしまうほど。

では、それほどまでにフィリップが憎かったのか?といえば、そうともいえなさそうだ。映画序盤、彼らが街で遊びまわるシーンは兄弟のようで、演技とは思えない笑顔がある。

諸々踏まえて感じ取れるのは…そう、トムがフィリップに向ける複雑な愛情に他ならない。
そしてその感情は、憧れや嫉妬を多分に含んだ「同化願望」に近いものなのだと思う。

トムがフィリップの服をこっそり身につけ、鏡に顔を寄せる(直後本人に見つかる)、という名シーンがある。トムのナルシスト性の表現と思いきや、その後の展開などを含めて考えれば、これはフィリップとの同化願望の表れだ。恋人のマルジュ(マリー・ラフォレ)を急に寝取ったのにしても、彼女への欲望ではなく、フィリップのものだったから…と考えたほうがむしろ自然に思える。

フィリップはトムを明らかに見下していて、色々とひどい扱いをしたりもするのだけれど、そこには一種の主従関係めいた力関係を見ることもできる。そこを気まぐれに飴と鞭よろしく頼られたりなんかしたら、トムも多少歪んだって仕方なかろう(…よね?)

トムはフィリップのサインや口癖なども真似していて、あろうことか彼に殺害計画を打ち明けてから殺す。なんとも謎な展開だが、そこには己の思いを包み隠さずわかってほしいという我侭があったのかもしれない。だって、「君を殺したいと思っている」なんて、これ以上の秘密の共有があるだろうか。

ヨットの上で、トムはフィリップにナイフを突き立てる。その直後、大きく波に揺れる船上、必死にしがみつくトムの姿が強烈に印象的だ。逆巻く荒波は、トムの胸中で暴れる愛憎そのもののように思える。

その後、トムは成り行きで犯した他の殺人を「俺じゃない、フィリップがやったんだ」と発言したり、徐々に自分と彼との境界を失っていくようでもある。果たしてトムに自覚があったのかどうかはさておき、「最高の気分だ」に至るまでの日々は、彼にとって充実したものだったのではないだろうか。
劇中では彼の半生についてそこまで詳細に語られるわけではないけれど、アラン・ドロンの陰のある眼差しは豊かな想像の余白を作り、いっぱいの太陽を乱反射し続けているのだ。