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アイダよ、何処へ?のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

アイダよ、何処へ?(2020年製作の映画)
3.0
[どこへ行くアイダ?ローマはどうなった?] 60点

歴史に残る大きな事件の当事者として最前線を俯瞰的に眺める立場にある女性が家族の安全を知るために渦中へ乗り込んでいく。本作品は同じくヴェネツィア映画祭のコンペに選出されたアンドレイ・コンチャロフスキー『親愛なる同志たちへ』と少なからず共通する部分がある。本作品は1995年7月11日、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで起こったスルプスカ共和国軍によるボシュニャク人の虐殺を描いている。主人公アイダは駐留していたオランダ軍の国際連合平和維持活動隊(国連軍)との通訳を務めており、映画自体も何の根拠もなく安全だと説く(しかない)国連軍のカールマンス大佐と街に侵攻してきたスルプスカ共和国軍に動揺するスレブレニツァ市長の間を通訳で結ぶシーンから始まる。国連軍は侵攻すれば休戦協定違反で首都が爆撃されるから大丈夫の一点張りだが、ラトコ・ムラディッチは国連軍が動けないことを見破っていた。斯くして侵攻は始まり、住民たちは殺され、殺されなかった住民たちは国連軍の守る"安全地帯"であるポトチャリの施設に逃げ込む。しかし、物資もなにもない施設で国連軍は混乱して中途半端な数の住民だけ受け入れてゲートを閉ざし、ウッドストックくらい集まった人々は荒野に放置される。

本作品は夫と息子の一人を締め出されたアイダの物語を中心に、ナメられまくって孤立無援の戦いを強いられるカールマンス大佐、そして侵攻してきたラトコ・ムラディッチの三つの立場から事件を描いている。閉め出された夫を中に入れるには、ムラディッチとの交渉の席に立つボランティアにねじ込むしかないが、それは荒野に放置するのと同等かそれ以上に危険が伴う行為である。カールマンス大佐は予定通り空爆を打診するが、本部の将校は全員電話がつながらず、ムラディッチとの交渉では"事を荒立てるな"という言葉だけ預かって何も出来ない。ムラディッチはカールマンス大佐を人質に非武装地帯に兵士を送り込むわ、"助けてあげる"と言って住民を連れ出して住民を殺しまくるわ(ナチスのユダヤ人移送とそっくり)とやりたい放題。避難所に食料やトイレなどがないことを逆手に取って、言葉巧みに誘い出す姿は悪魔の所業にも見えてくる。そして、それらの合間に語られるのは、逃げてきた住民たちや国連軍兵士たちの、非日常でも続く日常生活の延長である。

"Quo Vadis"とは、"どこへ行く?"という意味の聖書の引用句であり、キリスト教徒の迫害が起こった際にローマから逃げようとしたペトロに対して、イエスが投げかけた言葉である。この後には"殺されているキリスト教徒を君が放り出すなら、私がもう一度十字架に掛けられて来よう"と続く。これはアイダとペトロの立場が重ねられている。通訳のアイダだけは職員待遇で国連軍として施設に残ることができるが、生き延びさせようとした家族は残れない。国連軍通訳という特権的な力を最大限使って家族を生き延びさせようとするが、死地へ送られる同胞たちを見放してまで行うその行為は正しいのだろうか?為す術もなくムラディッチに住民を受け渡すカールマンス大佐の言葉を通訳して住民たちを死地に送るのは虐殺に加担したのと同罪なのか?という問いを投げかけている。

★以下、ネタバレを含む

ペトロはそのままローマへと戻って磔刑に処された。しかし、国連軍所属のアイダは"ローマ"に戻ることすら許されなかった。時間は戦争が終わった後へとシフトし、アイダは地元に残って教師を続けていることが提示される。彼女の目に映るのは、国家の未来を担う子供たちなのだ。それは正しくラヴ・ディアスが『停止』で訴えた通り、教育を施すことで文化から覆していくことに他ならない。
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