shunsukeh

ドライブ・マイ・カーのshunsukehのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

この映画は、約3時間の長尺の中で、40分程をプロローグに費やしている。そこで、投げかけられるのは次のようなことだ。
家福とのセックスの最中に音が物語を語り、車の中では家福が音に物語を語る。これは一体どういう行為なのか。家福が演じている多言語での演劇の意味や狙いは何なのか。家福にとって、車の中で音が吹き込んだ演劇の台詞を聞き、それに応じて台詞を喋ることは、どういう行為なのか。夫、家福の留守中に他の男を家に入れ情事にふけり、それでいて、交通事故に遭った家福を真剣に心配する様子を示し、夫が家福で良かったと言う音の本性は何なのか。幼くして娘を亡くした音が次の子を望まず、家福がそれに応じていたのはなぜか。音が家福に話せずに死んだその話の内容は、彼女が他の男と寝ていたことに関係することだったのか。
音と家福が物語を語り合うシステムは高槻との話で明かされる。その題材になった物語はこうだ。自分のことを相手に証さず、相手のことを一方的に知ろうとした主人公。主人公は空き巣を良しとするが、空き巣先でのオナニーを良しとしない。これは音自身の性の倫理観と家福を大切に思う心の矛盾を暗示している。家福は、ヤマガの部屋で自慰をした主人公が帰宅した家人に見つかる手前までの話を聞いていたが、高槻は、その後、帰宅した家人と思われたのは空き巣で、主人公がその空き巣を殺し、自らの罪を監視カメラに向って告白するところまでを聞いていた。これは、音は家福に対して罪を犯し、その意識はあったが、それを家福が咎めたり、怒ったりする気持をそのまま自分にぶつけて欲しいという思いを暗示していたのではなかったか。
多言語での演劇は、現実には多言語を理解できる者は少なく、言葉による意思疎通が出来ないはずであるが、あたかもそれが出来ているように観せる。観客はこれがあり得ない世界であることを理解する一方で、言葉が通じたとて、果たしてどれだけの真の意思疎通が成立しているのか、ということにも思いを至らせるのではないか。従って、物語の終盤に家福演じるワーニャとイ・ユナ演じるソーニャが手話で通じ合える場面は、言葉を乗り越えた相互理解を表現しており、観客を深い感銘に導くのだと思う。
家福は、一人でSAAB 900Turboを運転するとき、音が吹き込んだ演劇の台詞に応じて彼の台詞を喋るのは演劇上の確認作業だと言っている。しかし、本当は、この行為は、演劇のためということを越えた音との対話だったのではないだろうか。そして、SAAB 900Turboはそれを心ゆくまで行える大切な場所だったのだろう。だから、本来、ドライバーとしてそこにいるみさきは邪魔になるところだが、彼女の運転が車が動いていることを忘れさせるほど上手く、会話も最小限で運転に徹していたので、邪魔にはならなかった。
音は脚本で演じる男優たちと寝ることを繰り返していた。彼女の中では愛とセックスは結びついておらず、愛のないセックスも、彼女の正直な心のままの行為であったようだ。しかし、そんな彼女も一般的な良識は理解しており、家福には他の男たちとの情事を彼女なりに見つからないようにしていた。音が家福と接する態度や発する言葉は心からのものであり、彼女は家福を愛していたのだろう。娘を失った音はその悲しみが深すぎたため、それが再度訪れることを恐れて次の子を望まなかったのかも知れない。そして、その彼女を気遣いその気持に添う夫である家福を愛していたのだ。
みさきは虐待する母に育てられたため、仕事には誠実だが、自分を閉ざして、他人にも踏み込まないような態度だ。しかし、家福が自分の運転を認め、彼とカセットテープの妻との対話、高槻との会話などに接し、家福の事をいくらか理解出来たため、心を開いていった。彼女は、母は子供の人格も持っていて、その人格との対話で安らぎを得ていたにもかかわらず、家が土砂崩れに見舞われたときにその母を見殺しにした事を家福に告白した。同じく、家福も音が亡くなった晩、本当はもっと早く帰れたのに、音がしようとしていた話で、音との関係が変ってしまうことを恐れて、すぐには帰らなかった。そうしなければ、音は死ななかったのではないかと深く後悔している。そのことをみさきに伝えた。彼らはお互いの苦しみを理解し、通じ合い、抱きしめ合う。
ラストシーンは韓国だ。みさきはスーパー・マーケットで買い物をし、犬が乗っているナンバープレートが韓国のものに変った家福のSAAB 900Turboに乗り込んで走らせる。ここから、家福とみさきは韓国を拠点に暮らしている、また、その二人は共に暮らしているのかそれに近い状態であると想像できる。彼らは、男女のパートナーになったのかも知れないし、みさきが家福の死んだ娘と同い年であることから、彼らは親子のように暮らしているのかも知れない。何れにしろ、彼らは、それぞれを共に歩む相手と生きていくことにしたようだ。
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