脳内金魚

復讐の記憶の脳内金魚のネタバレレビュー・内容・結末

復讐の記憶(2022年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

オリジナルの『手紙は憶えている』を公開当時観賞している。そのリメイクと言うことで観賞してみた。と言うのは、オリジナルはナチスをテーマにしているだけに、韓国ではこれをどうするのかがとても興味があったから。
で、韓国版の予告編を見たとき、「植民地支配」とあったこと、カーチェイス紛いのシーンと何故か相棒がいるので(オリジナルは「犯行現場」をともにする相棒はいない)、どう料理するんだ?と益々気になっていた。

大まかな流れはオリジナルを踏襲しているのだが、一番の肝である「本人の記憶」に関してを全くの逆にしたことで、最終的に受ける印象がガラリと変わっている。ざっくり言えば、オリジナルはサスペンス、サイコスリラーテイストだが、こちらは叙情的になっている。
オリジナルの主人公はナチスの純然たる「加害者」である。対して、韓国版主人公ピルジュは、時代が作ったある意味別の視点では被害者とも言える。そう生きざるを得なかった人たちの一人なのだ。最後のターゲットが言う「こうしなければみんな死んでいた。おまえもそうしたから今生きているのだ」という台詞に全てが集約されている。その点からもとても感情に訴える作りだ。オリジナルの主人公は都合よく記憶を改竄しているし(まぁ、病気故とか、真犯人の狙いとも言えるが)、単純明快な「悪人」だ。独軍敗戦の混乱に乗じ、ユダヤ人の生き残りかのように偽造して生き延びた情状酌量の余地がない悪人だ。そう、分かりやすい悪人がいるかどうかなのだ。その有無もオリジナルと韓国版の大きな違いだ。

終盤、自死で幕をひこうとしたピルジュに、一連の事件に巻き込まれたインギュが言う。「自分だけを特別扱いするな。罪を犯したなら法で裁かれろ。それが正しい生き方だ。死に逃げるな」この作品の奥深いところは、ピルジュが完全な悪ではないところだ。
そもそもの事件は、第二次世界大戦中の韓国情勢に端を発する。要は植民地支配された韓国国内で、本体勢力としてあるか、日本に与するか否かと言うことだ。ピルジュの家族は、父は日本憲兵による拷問死、兄は強制徴用、姉は慰安婦となり自死する。ピルジュは最終的に日本に与する側となり、関東軍に従軍する。劇中からは、実際ピルジュが戦中に何をしたのかは明言されない。創氏改名(初めて知った言葉だが、言わんとすることは分かる。漢字って便利)し(され)、日本人として胞と敵対したのか等詳細は不明だ。なので、ピルジュが考える自分の罪が、感情的なものなのか実際的なものなのかは分からない。ただ、ピルジュからすれば自分もターゲットと同じ罪人なのだろう。けれど、世界規模の大戦時、一体どれだけの人が体制に与さずにいられただろうか。
もちろん、当時のドイツ人たちもナチスと言う体制に与さなければならなかったかも知れない。だが韓国の場合は敵対したのは、家族や昨日まで笑いあっていた隣人であった「同胞」だった。そこが、ナチスを扱ったオリジナルとはまた異なる悲劇性であり、単純な二項対立ではないやるせなさや割り切れなさを感じる。

それらに対する監督のアンサーなのかなと思われる台詞がある。インギュがピルジュを説得したときの台詞と、収監された彼に面会したときの台詞だ。

「罪を犯した。でも悪い人ではない。それを言いたかった」

おそらく、これがこの韓国版の骨子であり、監督の考えなのかなと思った。これはピルジュだけではなく、ターゲットとなった人物たちにも、体制に流された市井の人々にも当てはまる。
まるで、思考問題の「トロッコ問題」のようだ。あれは明確な「答え」求めるものではなく、単純な思考問題だ。かといって、この問題が答えはないからと逃げてしまっては意味がない。万人の納得する答えはでなくても、考えることが大事なのだろう。そして、そのひとつの答えがインギュの台詞なのだろう。

正直、途中は「なんだよ反日かよ」と思ってしまった。けれどそこで思考停止すると、この映画の言いたいことの半分も伝わらない。確かにトウジョウは日本人サイドの人間として殺されているがテーマは「同胞を裏切った者」への復讐であり、戦時下の枢軸体制に対し人間としてどうあるべきかと言うことなのだろう。

オリジナルにあるサスペンス感や大どんでん返しはないが、これはこれで同じ「戦時下の体制」が人々に遺した負の遺産と言う点では十分秀逸だと思う。
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