ナガエ

ホロコーストの罪人のナガエのレビュー・感想・評価

ホロコーストの罪人(2020年製作の映画)
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戦争にしても、今まさに僕たちが直面しているコロナウイルスにしても、「自分が悪いわけじゃない」という状況だ。だから、そんな状況下で、普段の自分と違うことをしてしまったとしても、仕方ないと言えば仕方ない。

でもそういう時に、「仕方ない」で済ませずに、平時と同じ判断が出来る人間でいたいとも思う。

自分や大切な人が、何かの状況に巻き込まれて辛い目に遭うというのは、誰だって避けたいものだ。でも、それを避けるために、別の誰かを辛い目に遭わせてしまうこともある。

誰かを犠牲にしなければ回避できないような状況というのは、そもそもが間違っている。どの段階で誰が間違えたのかという違いはあるだろうが、とにかく、そんな状況下にいるということ事態が何かおかしい。

そして、「こんな状況はおかしいのだから、普段と違う判断をしても仕方ない」という判断も、否定はできない。例えば、今飲食店は休業要請など出されているだろうが、それを無視して営業する店舗を、完全には否定できない。自分を取り巻く状況の方が間違っているのだから、その枠組の中のルールから逸脱する、という判断は、認めたくないけど仕方ないと思う。

でも自分だったら、と思う。あくまで理想論に過ぎないけれども、僕はやっぱり、自分がいる状況がどれだけ狂ったものになっても、平時と判断基準を変えたくないな、と思う。

有事の時、そういう判断が出来る自分であることを、切に願っている。

ナチスによるホロコーストは、様々な形で記録が残り、フィクションという形で様々に受け継がれている。僕は今年に入ってからだけでも既に、ホロコーストに関係する映画を3本観た(僕は映画館でしか映画を観ないので、少なくとも3本劇場公開されている、ということ)。

「戦争」という辛い記憶を次の世代に受け継いでいくために、「戦争」に関係するテーマは様々なものがフィクションとして取り上げられているだろうが、その中でもホロコーストは、取り上げられる量も、取り上げられる内容の種類も桁違いだと思う。知れば知るほど、まだこんなに知らないことがあったのか、と驚かされるような、そんな驚愕の歴史だということを改めて思い知らされる。

今ふたたび、中東が揺れている。タリバンが政権を奪取し、イスラム教を厳格に適用したかつての辛い日々が戻ってくるかもしれない、と住民は恐怖している。

僕には、ナチスのホロコーストも理解できないが、タリバンの主張も理解できない。なぜそこまで厳格にイスラム教の教えを守らなければならないのか、守るなら勝手に守ればいいのになぜ他の人にもそれを押し付けるのか。理解不能だ。

そして、現代においてすら、このような理解が及ばない異常な価値観が世界のどこかに残っている。

だからこそ、ナチスのホロコーストは、決して過去の出来事ではない。ホロコーストとまったく同じ出来事は起こらないかもしれない。しかし、ホロコーストと同じような悲劇は、これからも起こるだろうし、今この瞬間にも恐らくどこかで起こっているだろう。

そして、ホロコーストでもなんでもそうだが、「その事実を知り、関心を持っている人」が多ければ多いほど、状況は好転する可能性が高まるだろう。

自分が生き延びるのにあっぷあっぷの人は、自分のことだけ精一杯考えて入ればいいと思う。しかし、少しでも余力があるなら、「知る」「興味を持つ」という方に、自分のリソースを割くということが大事だろうなと思っている。

内容に入ろうと思います。
実際に起こった出来事に基づく物語だ。映画では主に、ユダヤ人一家であるブラウデ家の面々が描かれる。
1942年11月26日、ノルウェーの国家秘密警察のロッドは、非番の者も集めてある指示を出す。それは、ノルウェー中のユダヤ人を集めて船に乗せるというものだ。ロッドは、その指令を受けてから48時間以内にこのミッションを完遂させなければならなかった。
当然、ユダヤ人が乗ることになるドナウ号は、アウシュビッツに向かう
3年前のこと。ノルウェー代表としてボクシングに勝利したチャールズは、兄弟たちと勝利の酒盛りをしていた。チャールズは、付き合っている彼女・ラグンヒルと結婚を考えているのだが、彼女がユダヤ人ではないことが引っかかっていた。
家族に認められるか分からなかったのだ。
ブラウデ家は、ユダヤ教の教えにのっとって、安息日などにお祝いをしたりしている。元々リトアニアにいたが、そこでもユダヤ人の迫害が厳しくなり、ノルウェーへと逃れてきたのだ。恐らく子どもたちは、ノルウェーに移り住んでから生まれたのだろう、チャールズを含め子どもたちは、ユダヤ人であるという自覚よりは、ノルウェー人だという自覚の方が強い。
チャールズは家族の反応をそれとなく確認してからラグンヒルにプロポーズし、めでたく結婚が決まった。
幸せな生活が始まると思った矢先、ドイツ軍がオスロフィヨルドの要塞を突破したというニュースが流れる。ドイツ軍がノルウェーに降伏を要求し、情勢は一気に悪くなっていく。
それからしばらくして、ブラウデ家の男たちを含む、ノルウェー中のユダヤ人男性が一斉に逮捕されてしまう。逮捕理由など聞かされることなく彼らは連行され……。
というような話です。

映画の最後で、ノルウェー政府が公式にこの件について謝罪した、という字幕が表示されたが、なんとそれは2012年のことだったという。つい10年ほど前のことだ。もちろん「公然の秘密」として知られていた事実ではあったはずだが、政府が公式に認めて謝罪するのがこれほど遅かったという点にも驚かされた。

僕にはそもそも「ユダヤ人」というのが欧米人からどう”見える”のかイメージができない。これは純粋に「見た目」の話だ。

例えば日本でも、「沖縄出身の人」はなんとなく分かることがある。顔が濃いというか彫りが深いというイメージだろう。また、欧米人からは「アジア人はみんな同じに見える」と言われるが、日本人からすれば、「日本人かそうでないか」は大体分かるものだ。

これと同じ話を、例えば「ノルウェー人とユダヤ人」、あるいは「ドイツ人とユダヤ人」に適用していいのかどうかがイマイチ分からない。

なんでこんな話を書くのかと言えば、この映画で描かれる問題の一番のポイントが、「ノルウェー人が、ノルウェー人(のユダヤ人)を収容所に送り迫害した」ことにあるからだ。

映画の中で、「ノルウェーに住むユダヤ人の身分証明書に、ユダヤ人であることを示す押印をする」という場面が出てくる。このことを考えると、「見た目ではユダヤ人かどうか分からない」ということなのだろうか、とも思う。

そうだとしたら、欧米人にとって「ユダヤ人」の問題というのは、例えば日本でいう「部落差別」のようなものに近いのだろうか?

僕は部落差別についても自分で経験したことがない(本でしか読んだことがない)のでよく分かっていないが、部落出身かどうかというのは「見た目」で分かるものではないと思う。見た目では分からないが、「あいつは部落出身だ」という理由で差別されるということだろう。

もしユダヤ人も見た目で区別が出来ないのであれば、この部落差別と同じ構図なのだろうか、と思う。

部落差別に対しても感じるが、それはなかなか凄い話だなと思う。見た目の違いがあれば差別してもいい、という話ではまったくないのだが、まだ「なぜその差別が発生しているのか」という理由は捉えやすい。しかし、見た目ではなく、書類でもなければ確認できないような「出生」によって差別が起こるというのは、感覚として僕には上手く理解できない。

しかし、ちょっと状況は違うかもしれないが、日本でもこれから、そう遠いとは言えない問題が顕在化してくると思う。恐らくだが、「福島県出身というだけの理由で結婚できない」みたいな人が出てきてしまうだろうと思っている(既に起こっているかもしれないが)。子どもの方がより放射線を取り込みやすいと言われていたから、子ども時代を福島県で過ごした人が結婚を考える年齢になった時、残念ながら似たような問題が起こってしまうだろうと思う。

そう考えた時、ノルウェーで起こったこのホロコーストの問題は、現代日本においても決して他人事ではないと言えるだろう。

さて冒頭で、「有事でも平時と同じ判断基準を保てる人間でいたい」と書いたが、そういう意味で言うと、秘密警察のロッドは「有事だから普段と違う判断をした」というタイプの人間ではないと感じた。

ロッドの内面についてはほぼ描かれることはないが、恐らくロッドは、有事だろうが平時だろうが、上からの命令に従って臆することなくユダヤ人の根絶を目指し、その行動の後も後悔の念を抱くようなタイプではないと思う。

ロッドの指示に従った秘密警察の中には恐らく、自分の良心に反する決断に従わなければならない辛さを感じていた者もいるだろう。

そして僕は、悲惨な悲劇を防ぐためには、そういう人間こそをもっと取り上げていく方がいいのではないか、と思っている。つまり、「有事であるからという理由で普段とは違った行動・決断をしてしまったことを、平時に戻ってからもの凄く後悔している人」をだ。

どれだけ感情的に訴えようが、恐らくロッドのような人間の考え方が変わったり、改心したりすることは恐らくないだろう。はっきり言って、そんなことをするのは時間の無駄だと思う。

それよりは、良心を捨てきれないと思いつつも、悪事に手を染めざるを得ず、そんな決断をしてしまった過去を悔いている人物の苦悩を描く方が、抑止力としては大きいのではないかと思っている。

人間はいつだって過ちを犯すし、たとえ一個人の過ちだとしてもそれが歴史を大きく動かすこともある。だからこそ、しなくていい過ちに足を踏み入れずに済むように、過去の過ちを後悔する人の意見や感情が表に出てきてほしい。

そしてそのためには、過ちを犯した者をただ排除したり炎上させたりするのではなく、理解しようとする意思を持たなければならないだろうと思う。

そういう蓄積を繰り返さなければ、ホロコーストや、この映画で描かれるユダヤ人の輸送など、悲劇的なことはこれからも幾度も繰り返されてしまうことだろう。
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