チャンミ

マルコム&マリーのチャンミのレビュー・感想・評価

マルコム&マリー(2021年製作の映画)
4.1
異性愛のカップルが関係性、その男が作る映画、題材となった女が抱える問題・困難、好意的な批評すら不満に思う神経質な作家性、などをめぐる口論が続く一夜の物語は、破滅を匂わせながらユーモアとの緊張関係がある。
これらの手つきは『マリッジ・ストーリー』やウディ・アレンを想起させるが、よりセクシーで、露悪的になりかねない内心の暴露、えぐるような疑心や、人種やジェンダーに基づく不均衡、ハリウッドの保守的な構造をふまえた批評への批評の怒り、哀切、野心を含むエネルギーの発露のタフさの一方で、わかりあえない他者への慈しみと欲望と承認の混濁を隠さない点が、わたしのリアリティと共鳴した。

冒頭から、マリーはマルコム所望のマック&チーズを作ってあげて、バターは有塩か無塩か聞く。
このささやかなエピソードはマック&チーズへの食欲を観客に植え付けるだけでなく、映画のプレミアの余韻に浸って(with JBの曲)自己陶酔な「男性像」に象徴的な有害性がうかがわせる。しかしレヴィンソンは「男性」をひとくくりとせず、黒人男性へのマイノリティとしての不当な価値づけや規範への意識を持ち、まさに批評家の言を引くくだりは、ジェンダーとエスニシティやネーションが無関係ではなく、さらに異性愛に基づく家族主義の支えるシスジェンダーな国家像とも絡み合っており、それらへの批判的な眼差しと葛藤をレヴィンソンが視野に入れているのはまちがいない。

そもそも、「セクシー」と感じ、そしてそこに魅力を感じる自分のような視点や価値観って何に基づいているのか?
『EUPHORIA / ユーフォリア』でもレヴィンソンは、被虐的な経験への希求やそうした経験による承認欲求の満足と、そのセックスを支える異性愛主義的な権力構造を制服する意味についてもふれていた。
本作においてもマイノリティ側が、既存の価値基準、すなわち女性は男性主体な関係性に、黒人は白人中心的な市場(ハリウッド)や芸術の美意識に、同化することが生存戦略でもあることは忘れられてはならない。
その文化的な軋轢、衝突、葛藤がエロスというシステムを支えているのかもしれない。

マルコムとマリーの関係性にのみ焦点を当てると、前者の「男性性」に支配的な意味が付されていることに気がとられてしまうだろうが、二人はともに黒人であり、マリーは(というかゼンデイヤは)白人とのバイレイシャルであり、マルコムは優れた高等教育を受けたものであり、つまりふたつの身体の外や内に、複数の権力構造や緊張関係が走っているという単純化に陥らない意図がこめられた設定が張り巡らされていると感じた。

それにしてもゼンデイヤもジョン・デイヴィッド・ワシントンもすばらしいのだが、劇中の非常にユーモラスでスリリングなメタシーンはじめ、ゼンデイヤが単なるスターではなく芝居がとにかくできるということを証明しているし、レヴィンソンの眼差しはまさにその価値へと光を当てることに苦心しているように思う。

ただ、白人男性であるレヴィンソンがゼンデイヤとワシントンを通して、「批評家/作家」「白人/黒人」「男性/女性」や、教育・文化・容姿などの資源に基づく、さまざまな格差の混濁や矛盾を表現することについて、まだじぶんのなかで処理できてない部分も大きいです。
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