イトウモ

秘密の森の、その向こうのイトウモのレビュー・感想・評価

秘密の森の、その向こう(2021年製作の映画)
2.0
ぎょっ、とするようなファーストショット。
クロスワードパズルの答えを推測する悩ましげな皺くちゃの老婆のクロースアップから、カットを割らずに手元の机に推移すると、小さな子どもの手が枠に答えを書き始める。
老婆のすぐ横で、その小さな孫が隣に座って一緒に遊んでいるに過ぎない他愛もない光景だとすぐにわかるのだが、
一瞬、老婆の顔と老婆の頭に、みずみずしい子どもの小さな肉体がフランケンシュタイン的に接続されたかのようなグロテスクな錯覚に眩暈を覚える

この最初のショットだけが素晴らしい。あとは驚くほど退屈である。

祖母を亡くし、母親に失踪された少女が、母の暮らした古い家に滞在し近所の森の奥に行くと同じ家がもう一つあり、そこに暮らしている少女と出会うが実はタイムスリップを経験していて、自分と顔がそっくりのその少女は自分と同い年の頃の母親である。ただそれだけ。
祖母と母とを同時に失った少女が、生きていた頃の祖母、子供の頃の母親と過ごすファンタジックな時間を与えられるという設定はひたすらに甘い。
脚本上では母と娘である二人の少女を、実際には同じ顔をした双子の子役が演じる。つまり、同じ顔をした同い年の少女が実は親子であるというしかけが面白いけれど、はっきり言ってそれに頼りすぎだ。シンプルであるというよりも手数に乏しい退屈さで七十分が間伸びして感じられた。

同じ一つのロケーション(家)が別の家であるかのように語られる時間SFという設定で、映画の演出の遊びをするということなら『わたしたちの家』(清原)のほうが何倍も遊びとして手数が豊かである。

シアマという監督は複数の女の物語を一人の女のエゴの中で語るという強い主観性がフィルモグラフィに一貫されている。
この映画の退屈さが、娘も母も祖母も実は一人の人間の肉体に集約されているというエゴイスティックでナルシスティックな妄想のうっとり感にある。複数の人間を一つの主観の中に落とし込めようとしたら、生身の身体は普通壊れる。それが壊れる時のグロテスクさが出ているのは最初のショット。
老婆の頭に少女の腕が接続される不気味さだけ。あの気持ち悪さだけが面白かった