Habby中野

イントロダクションのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

イントロダクション(2020年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

タイトルの通りであると言えばそうだけど、序論から結論まで序論で通す(何言ってんだか)ことで顕現する「待つ」ことの正体。少し遅れて歩く恋人を立ち止まって待ち、すぐに用を終わらせるからと待たせ、その用のために待ち、それを待たせる父親が患者も他の来客も待たせて不貞寝する間も待ちながら煙草を吸う男、歩いてる途中にわざわざ立ち止まり煙草を吸いながら一切の生産性がない会話をし、新居に案内された後は娘を待つ間煙草を吸う母親と家主に娘は待たされ、川縁で恋人に会ってくると宣言したまま中々立ち去らない娘を母親や家主もそしていよいよ鑑賞者のわれわれもしびれを切らしそうになるほど待ち、その娘を煙草を吸いながら待つ男、彼が煙草を吸い終わるか次の行動に移るかを待つ彼女、歩き始めたと思えば立ち止まり煙草に火をつける男、その火がつくのを待つ女、見つめ合い、抱擁し口づけをしそうで一向にしない二人を死ぬまで待つわれわれ、居酒屋に呼び出した息子を待つ母親、煙草を吸う男たちを静かに待つとてつもなく中途半端な場所に駐められた車、盃が満たされるのを待つ、会話が始まるのを待つ、ついには「ウソの抱擁はできない」と芝居を断罪する台詞を吐くがそこに崩壊の可能性を孕んでいる男、それに対して完全に理性を飛ばしてブチギレ飛ばす老俳優、気配を消す母親と存在意義をなくした友人、その驚異的なまでに不揃いなセッションをなすすべなく見つめる私。画面を超えてこちら側にまで過剰に陳べられた「待つ」姿、それで明らかになるのはただ単に、われわれは常に待ち続けているのだということ。映画は待たせ、われわれは待つ。その共謀が映画を作り上げている。この「イントロダクション」でさえ序章でありまた結末に至る。人はこの上なく結果を、終末を求めている。映画を映画たらしめているのはその「終わり」によるものだ。われわれは今も待っているし、待たせている。人生と映画の違うところは、レビューを書けるかどうか。導入を導入と、結末を結末とすることができるのかどうか。呆けたように服を着たまま冬の海から上がってきた凍える男をフォローしたカメラは、ふと視線を外すように波を見つめる。しばらく見つめたあと、カメラはまた男の方へパンする。そこには何の変わり映えもなく凍える男の姿があって、映画は終わる。
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