蛇らい

白い牛のバラッドの蛇らいのレビュー・感想・評価

白い牛のバラッド(2020年製作の映画)
4.3
ほとんどレコメンドしてる人がいなかったので、危うく見逃すところだった。

端正で映画的なカメラワークや演出が隅々まで行き届いているが、そこに依存せず、重厚なサスペンスとしてのドラマ性も維持できている。さらには、自国の社会的なシイューもバランス良く配置し、驚くべき完成度に仕上がっている。

白い牛(死刑囚のメタファー)のウェルメイドな映画が始まる予感をさせるファーストカット、物語が推進し始めた後半で、今度はスクリーンの外を見つめる白い牛のカットがインサートされ、牛の目線が観客を逃してはくれない。

死刑制度を通して、誰が殺し、殺され、誰が許して、許されるのかという疑問の本質で揺さぶる。死刑制度は人を殺した人を殺す制度であるという側面を再確認させられ、死刑を宣告する権利を人間に与えている存在を思慮してまう。イランでは法律そのものが、神の意志の元の決定論的解釈で成り立っているため、判決を下す人間にはある種の赦しが与えられる。

しかし、人間の感情の機微は法律や宗教の枠には収まるものではなく、常に変化し、流動的なものである。その中で正しくあろうとする人間の普遍的な本質と、免罪を請うことで許されるのではないかという安易な脆弱性が描かれていた。

罪の意識から逃れるための未亡人への奉仕が、自分を殺し、被害者をも殺人犯にしてしまい、死刑囚にもしてしまう恐ろしい円環の可能性が示唆されている。それを実現可能にしているのは紛れもなく社会の構造であり、ラストではどちらの解釈にも受け取れるような描かれ方が絶望的でもあり希望も捨てられていない。

彼女のディナーでの尋常ではない表情から判事は、牛乳に毒が盛られていることに気づいた上で口にしていたかもしれない。法的には何ら罪のない人間が苦しみ、自らに死刑を判決するかのような残酷なシーンだ。

男女の描かれ方も秀逸だ。劇中で判事と未亡人の関係性は、ストーリーが進むに連れて距離が縮まる。映画のセオリーからすれば、肉体的な関係が描かれる方が普通であり、より観客にエモーショナルに訴えかけることができる。パンフレットからの引用ではあるが、この作品はイラン映画であることが極めて自覚的で、男女の触れ合いを描くことがタブーとされる国ならではの表現方法で、男女の関係を描く。

肉体的な触れ合いではなく、紅をさすカットのみで女性の心情を表現しきっている。映画の主流であるアメリカ映画に迎合せず、自国の文化や精神風土、メンタリティを何よりも映画的な感性でカットに落とし込む技術とマインドは、日本映画も見習うべきである。

クローズアップとロングショットの使い分けも見事であり、双方の長回しが観客の感性に効果的に突き刺さる。パンするタイミングや、絶望することが決まっている出来事に辿り着くまでの廊下を歩くショットなど、絶望したときの時間が止まったような感覚を視覚的に表現できていて鳥肌が立った。『マッドマックス』でマックスが轢き殺された妻子の元へ向かう永遠のように長いストロークにも重なる。

挙げ切れないほどの象徴となるようなメタファーと、逃れられない社会構造を暗喩するショットとシーンの応酬に酔いしれた。まだ観てない人は必見だ。
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