Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)を配信している動画配信サービス

『Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)
動画配信は2025年7月時点の情報です。最新の配信状況は各サイトにてご確認ください。
本ページには動画配信サービスのプロモーションが含まれています。
目次

Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)が配信されているサービス一覧

『Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
WOWOWオンデマンド
アニメタイムズ
Roadstead
J:COM STREAM
TSUTAYA DISCAS

『Symbiopsychotaxiplasm: Take One(原題)』に投稿された感想・評価

4.5
劇映画を撮影する様子を撮影したドキュメンタリーを撮影する様子を撮影したドキュメンタリーを撮影する様子を撮影したドキュメンタリー

劇映画とドキュメンタリー映画の境目にその作為性を取り込むことによって、映画そのものが錯乱を生じる。監督は凡庸な脚本と曖昧な指示を繰り返し現場全体を混乱させドキュメンタリーを撮影しているクルーをイラつかせるが、クルーが集まり「監督の演出意図が理解できない」と会話している様子すらも映画内に取り込まれる。複雑な入れ子構造と難解で曖昧な演出意図、無能で性差別的な監督像とそれについて議論するクルー……映画を構成しているものとその裏側の何もかもが「映画」に取り込まれ、最早現実/仮想の二項対立すらも脱構築させ「映画」が作り上げられる。
その割に映像自体はかなりシンプルで、セントラルパークと編集室の二つのロケーションとその撮影現場を捉えることで、ここまで複雑な映画に仕上げたのが凄い。面白かった!
Shaw
-
脳内パラドックスで頭爆発しないよう注意。映画撮影クルーとそのクルーを撮影するクルーとその二つのクルーを撮影するクルーと、って入れ子構造になってる超絶メタなドキュメンタリー。

とにかくまあ、カメラを通し仮初の現実を創り上げ記録し切り貼りするという行為の秘める無限の可能性に圧倒される、そういう感覚。なにが現実で、なにがそうでないのか。

我々は無意識的に映画の凄さを感じ取っているが、それが何なのか、本作は論理的・実験的に炙り出し言語化しようとする。頭でっかちだが確かに興味深い。Take 2½も見ると思う。
moto
4.2
架空の映画を撮影して、そのクルーを撮影するクルーと、さらにその撮影現場全体を撮るクルーが存在する構造。整然としたマトリョーシカ的構造ではなく、編集というプロセスを経ているため、時にはその3視点が同時に画面上に並列される時もあれば、架空の劇中劇である男女の痴話話をクローズアップしたり、ギャラリーを制止するクルーや、グリーヴスのヴィジョンに戸惑うクルーたちへとフォーカスが自由にスライドを繰り返すため、純粋な入れ子構造は徐々に溶解する。そして観測スケールを問わず、この作品の「参加」するすべてのアクターは編集によって一つのネットワークの中に編み込まれる。ここでの「参加」とは主体的意思によるものではなく、複数のカメラに捉えられてしまった者たちのことを指すのではないだろうか。

映画、少なくとも劇映画自体は、脚本が存在し「仕組まれた」事象を映し出すが、事実は仕組まれていたとしてもアクターは挿入されたノイズ(物理的にも、概念的にも)に反応し(時には戸惑い)、事象を紡いでいく。
(ここではマイルス・デイビスの演奏が挿入されているし、同時に機材によるノイズも処理することなくあるがままに観客に提示している。)

こうしてみれば、即興自体もそもそも(「何か」を挿入することを企てた時点で)仕組まれたものだとは思うが、純粋に「自然な状態」などそもそもあるのだろうかという疑問にも行き着くだろう。他人の目線を気にしたことはないだろうか、あるいはその場の空気を意識したことはないだろうか、ないしは自分自身をまた離れたところから「客観的」に見た「目線」を気にしたことはないだろうか。その時点で見られているのであり、見えない何かに「仕組まれ」、即興劇を日常で演じているのにはすぎないのか、と。ここではあえて、架空の、でたらめな、「脚本のある」劇中劇を撮影し、その劇構造、事象の構造のレイヤ間の横滑りを提示したというのは反証的で極めて巧みだなと思った。

そんなこんなで、この映画(???)は事象と「観測」の構造と、その「あってないようなレイヤー」を自由に行き来する奇妙な体験へと誘っている。