ナガエ

エッシャー通りの赤いポストのナガエのレビュー・感想・評価

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最終的には面白い映画だった。

良かった。

正直、最初の1時間半ぐらいは、これ大丈夫かよ、と思っていた。
ただ途中で、「この映画全体の設定」と「この映画に出演している役者たちの境遇」がオーバーラップしているのだと気付き、面白いことを考えるなと思った。後で公式HPを観たら、「役者を目指すものたちに与えられたワークショップの脚本が『エッシャー通りの赤いポスト』であり、ワークショップと同時に映画撮影を行った」と書かれていて、僕が想像していた以上に常軌を逸した設定だったのだけど。

そして、安子が出てきた辺りから俄然面白くなり、最後の商店街のシーンは、そのあまりのカオスっぷりに驚かされながら、「なんじゃこの映画!」と思いながら、心はワクワクしてた。

面白かった。これは確かに、園子温にしか作れない映画かもしれないなぁ。

僕がワクワクした理由は、「0が1になる瞬間を自分が体験したいといつも思っているからかもしれない」と思う。

以前読んだ伊坂幸太郎の小説の中に、「数学の素養はなく、数学の授業に触れる機会もないが、自らピタゴラスの定理を発見した男」が出てくる物語があった。

ピタゴラスの定理は、古代ギリシャの時代から知られているものだし、学校の授業でもならう。だから、たとえそれを自力で見つけ出したところで「発見」などとは呼ばれない。ただ、少なくともその男にとってはまさに、「0が1になった瞬間」だと言えるだろう。すでに世界中の人が理解していることであっても、特定の誰かにとっては意味のある「0が1になる瞬間」は存在し得ると思う。

普段から出来るだけそういう経験をしたいと思って、本でも映画でも美術展でも、あらかじめ評価を見ず、内容も調べないまま触れるようにしている。そんな風にしていると、「自力でピタゴラスの定理を発見した男」みたいに、「世界のどこかではもうとっくに見つかってるだろうけど、僕にとっては未発見の何か」に出会えることがある。

そしてこの『エッシャー通りの赤いポスト』という映画はまさに、「映画」という装置を使い、「観客」という大多数に向けて「0が1になる瞬間を体験させる」ものだと言っていいのではないかと思う。

そこに僕は、凄くワクワクしたんだと思う。

映画に出てくる俳優は、そのほとんどがワークショップ参加者、つまり役者としての経験をほぼ持たない素人だろう。実際、役者の演技の良し悪しなど大して分からない僕でも、「上手くないなぁ」と感じる人ばかりだ。

普通の映画であれば、この「上手くないなぁ」という感覚は、映画全体をマイナスに引き込む要因にしかならないだろう。

しかし面白いことに、この映画では決してそうではない。確かに最初の1時間半ぐらいは、その「上手くないなぁ」という感覚に引きずられる形で「面白くない映画だ」と思っていたのだけど、次第に、「自分が今目にしているのは『0』なのだ」という感覚に気づき、僕の中では面白さに変わっていった。

映画に限らないが、「完成された作品」の中に「0」を見出すことはとても難しい。世間の目に触れる前に、何らかの形で取り除かれてしまうからだ。

生の演劇やライブではセリフを忘れたり何かミスが起こったりするかもしれないし、テレビの生放送やSNSの生配信などでは「0」が映り込むこともあるだろう。ただ、そのような「まさに今目の前で起こっていること」を除けば、「0」は編集などによって除かれてしまう。

あるいは、自主制作映画であれば、「全体のクオリティが低い」という意味で「0」を感じる機会もあるだろう。しかし、じゃあその「0」を評価できるかというとなかなか難しい。

『エッシャー通りの赤いポスト』の場合、園子温が撮っているという点で一定以上のクオリティは担保される。そしてその中に、様々な「0」を見出すことができ、そしてそれらが「1」に変わる、あるいは変わっていくかもしれない可能性を観客は受け取ることができる。

映画の途中から、観始めた時とうってかわってなんだか面白くなっていったのは、そういう変化があったからだと思う。

彼らは、「役者の経験がなく、決して演技が上手いとは言えない」という意味でも「0」なのだが、単純に「顔が知られていない」という意味でも「0」である。そしてそれも、この映画の鑑賞にプラスに働いていると思う。

映画に名の知られた俳優が出ると、「この人が中心に物語が展開していくのだな」ということがメタ情報として伝わってしまう。これは、どれだけ映画撮影の手法が洗練されようとも、避けがたい点だろう。映画のストーリーにはまったく不要でしかないそのメタ情報に、物語が縛られてしまうことにもなる。

しかし『エッシャー通りの赤いポスト』は、ほぼ知らない役者しか出てこない。名前が分かる俳優は「藤田朋子」だけ、あと何人か「名前は分からないけど顔は知っている」という俳優が出てくる。そしてそれ以外は知らない人、つまりワークショップの参加者だろう。

そしてだからこそ、物語がどんな風に展開していくのかまったく読めない。誰が主人公になるのかも、誰と誰の絡みに収斂していくのかも全然予想がつかない。

もちろんこの「有名な俳優が出ないことで観客にメタ情報が伝わらない」という点は、この映画でなくても実現可能だし、実際、中東や北欧など、その国では有名だろうが世界的にはそこまで知られていないだろう俳優が出てくる洋画で体感できる。決してこの映画に特徴的なことではないが、先述した「0を見いだせる」という良さの副次的なメリットだと思ってもらえればいい。

今書いたようなことは、僕が勝手に感じたことであり、この映画の捉え方として適切かどうかは分からない。園子温監督が意図したものなのか、勝手に滲み出てしまったのか、あるいは僕が勝手に感じ取っただけなのか、それも分からない。ただ、こんな風に捉えることができるという点でも非常に面白い映画だと感じた。

とにかくこの映画の中で衝撃を受けたのは安子だなぁ。「藤丸千」という方のようです。この人はワークショップの参加者じゃない本職の女優さんなんだと思ってたのだけど、調べてみるとこの人もワークショップ参加者だったようでメチャクチャ驚いた。

凄く良い演技するなぁ、と思った。繰り返すけど、別に僕は役者の演技の良し悪しが分かるわけじゃないから、あくまでも個人的な感想でしかないけど、藤丸千、メッチャいい。

映画の中で、「主役を奪うぞ」みたいなセリフが出てくるのだけど、まさにこの藤丸千は、「登場することで自然と主役に見えてしまう」存在だと感じました。もちろん彼女は、この映画全体の中で主要な役回りを演じていて、主役と言っていい配役でしょう。しかし、「物語の中心となる人物だから主役だ」というのではなく、「彼女の存在が、もの凄く主役感がある」と感じさせられたのです。

この感想では、映画の内容にはほぼ触れないことに決めてるんですけど、藤丸千が演じた安子という役は「狂気を孕む女」だということは書いておきましょう。

「狂気」を演じるのはなかなか難しいと思う。いくらでも「狂気的な振る舞い」は出来るだろうけど、「そういう人が実際に存在しそう」と思わせなくてもいけない。狂気が強くなればなるほど、そんな人間いないよとも思われて、現実感を失ってしまうような気がします。

ただ安子は、メチャクチャ狂気なのだけど、同時に「こういう人、いそうだなぁ」とも思わされる、絶妙な存在感を醸し出していたと感じました。僕は演技の経験などないので分からないけど、これはとても難しいバランスの上に成り立っていると思うし、よくこの「狂気」と「実在感」をバランスさせたなぁ、と感心させられました。

彼女の「狂気」が「実在しそう」だからこそ、この映画のラストも映えると言っていいでしょう。安子の「狂気」にリアリティがなければ、映画のラストシーンのリアリティも一気に失われてしまいます。「安子のような狂気を帯びた人物はどこかにいる」という実感があるからこそ、渋谷のスクランブル交差点で繰り広げられる「狂気」がめちゃくちゃリアルなものに見えるし、身震いするぐらいの感動すら覚えました。

以前、立教大学の学生が撮った『サクリファイス』という映画を観た時に、主役だった青木柚にも似たようなことを感じました。青木柚も『サクリファイス』という映画で初めてその存在を知りましたが、その後『うみべの女の子』の予告を観ていたら青木柚が主演で驚きました。さらにジョニー・デップ主演の『MINAMATA』という映画を観終わった後、ネットで調べたら、水俣病患者の1人を演じていた俳優が青木柚と知ってさらに衝撃を受けました。かなり長い時間映っていたのに、まったく気づかなかったし、正直なところ僕は、本当の水俣病の患者さんに演技してもらっているんだと思ってたぐらいです。

藤丸千が今後どんな女優人生を歩んでいくのか分かりませんが、恐らくまたどこかの映画で観る機会があるのではないかと感じました。

勧め方が難しい映画ではあるけれども、僕は観た方がいい映画だと思います。この感想で書いたことは僕なりの受け取り方だし、たぶん観る人次第でそれぞれの受け取り方ができるのではないかと思います。

明らかに「無謀」としか言えないような環境で撮影された映画であり、恐らくあらゆる困難をなぎ倒しながら劇場公開までこぎつけた作品だと思います。稀有な体験ができる映画だと思うので、是非観てみてください。
ナガエ

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