Kuuta

コーダ あいのうたのKuutaのネタバレレビュー・内容・結末

コーダ あいのうた(2021年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

BECK問題への誠実な回答

良作ですが、絶賛の中であれこれ考えてしまった、という感じです。

▽3種類の歌表現
BECK問題とは、映画の中で「素晴らしいとされる音楽」をどのように説得力を持って表現するか、という問題だ。

今作において、1年足らずの準備でバークレーに合格できるほどエミリア・ジョーンズの歌唱が優れているようには私には聞こえなかったし(もちろん上手だけど)、彼女の歌が作中の人の心を動かすのであれば、どのように監督は表現するのだろうかと、期待しながら見ていた。

そっくりな状況で、BECKの堤幸彦は佐藤健の歌声を徹頭徹尾「無音」として表現し、不評を買った訳だが、結論から言うと、今作は終盤の3カ所で、凄く上手く乗り切っていた。

1カ所目は学校でのコンサート。音楽が伝播する様子を、歌ではなく「視覚の広がり」によって表現している。原則的にルビー目線が維持される今作において、あの場面だけは擬似的な父の主観ショットが取られている。

「見えていなかったことに気付く」あの快感は、画面の中に意味を読み取る、映画を観る行為に似ている。観客は父と共に、「視点の切り替え」と「広がり」を体感することになる。だからあの場面は、歌の力に頼らずとも感動的なのだ。私もここは泣いた。

2カ所目は、父娘が車の荷台で交わすやりとりだ。父がルビーの喉を触ることで、歌は「触覚」に変換されている。

今作では「一方的な視点」が何度も描かれる。ルビーが気になる男の子のマイルズ(シングストリートのコナー!)をちらちら見たり、被写界深度の変化によって、ぼやけた背景の中で誰かが浮かび上がったり。瞑想中の先生は後ろを振り返らず、声だけでルビーを見分け、ピントを合わせている。視線を合わせるのを恥ずかしがったマイルズとルビーは、背を向け合って音を共有する。

ルビーが聾唖の父に届けたかった音楽は、この場面で、「触る/触られる」関係が同時に成立するコミュニケーションに置き換えられている。ルビーは触られているようで触っているし、父親は触っているようで触られている。

父と娘、健常者と聾唖者の間の「一方性」は、この2人の中では消えている。その上で、「ベースがお尻に響くから良い」「魚臭い」と五感の不調和っぷりを示した冒頭の伏線を、エピローグでは「家族全員が抱き合う=触覚を共有する」ことで回収している。

3カ所目は最後のオーディション。この場面は、学校のコンサートでは描かれなかった「ルビーから見た家族」の描写のように思う。父親が学校で視界を広げたのと同様に、今度はルビー側の画角に家族が入ってくる。被写界深度は序盤と異なり深い。「ハッピーバースデーが歌えない」ほど強い自己否定と孤独感を背負っていたルビーが、客席の家族をはっきりと視界に捉えるのが感動的だ。

だめ押しのように、自然と手話が溢れ出てくる。ルビーの愛は「視覚」に再び集約される。両者の間に「観客=第三者」として審査員が座っているのも周到で、視覚と聴覚の両方で、我々はルビーの思いを味わうことになる。

(意地悪な見方をすると、この場面は場面設定のうまさと手話の驚きで一気に語りきってしまうので、彼女の歌そのものが合格に値するかどうかは気にならなくなっている)

▽組合の話要る?
・「ミクロな分断」としての聾唖者の家族3人と健常者のルビーの関係を描く本筋に加え、「マクロな分断」として、地域から孤立するルビー一家と、漁村の人々を対比させている。

その両方が次第に好転していく、という構成だが、話が深く連動するわけでもないし、「障害者の労働」に関わる展開は明らかにゆるい。

「下品で自由な聾唖の家族」描写が記号的に見えてしまったのもあり(例えば兄貴のマッチングアプリの場面、健常者の成人男性に対してあんな描写入れるだろうか?コンドームの場面のクドさもキツい。逆に聾唖者をバカにしてない?)、前半は特にもたついていた印象。家族の話に集中していくラスト30分が見事だっただけに、もったいなく感じた。

・個人的にギャグがあまりハマらなかったのも、モヤっとした要因か。少なくとも、自分が見た劇場では笑いは全然起きていなかった。

・ルビーの女友達と兄貴の関係は、ナチュラルに壁がない感じで魅力的に描けていたと思う。一方、母親の外部との断絶っぷり、「家族しかない」感じが見ていてつらく、彼女だけは、ルビーの決断を受け入れていく心情の変化が飲み込みづらかった。74点。
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