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わたしは最悪。(2021年製作の映画)
4.3
 冒頭にいきなり、Ahmad Jamalの『I Love Music』が流れて驚く。Nasの1st『Illmatic』を代表する『World Is Yours』の元ネタとしても知られるこの曲は、Ahmad Jamalのリズミカルな鍵盤のタッチが縦横無尽に繰り広げられ、PETE ROCKがその心眼で選び抜いた曲だ。そこにはある種の「間」が感じられるJAZZ史に残る忘れ得ぬ名曲だ。ユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)は間=人生の余白に耐えられず、ひたすら自分探しをする女性だ。30歳の節目を迎えたものの、彼女の人生は相変わらず一つの方向に定まらない。医師を志すものの、自分が人間に求めるのは外科的な外面ではなく、内面だと判断し心理学へ。しかしその内面には飽き足らず、美学的な興味から写真の世界へ。その美しいルックスも手伝い、彼氏は途切れることはないものの、長続きはしない。彼氏も仕事も常に半人前。何かをやり遂げたことのない三十路女性の病巣。常に「ここではないどこか」を求めながら、1つの方向へ向かうことがない。そんな彼女がモデルの友人と参加したパーティで運命の男に出会うのだ。15歳年上の漫画家アクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)はユリヤがまだ手にしたことのない名声を手に入れている。「ボブキャット」という風刺漫画を手掛ける彼はその反面、非常に純粋で、ユリヤは彼の包容力とその大らかさに惚れたのだが、幸せに見える彼女の人生だがそこに安住する気はない。

 そりゃ人生は早い段階で目標を見つけ、あとは一気呵成にそれに集中する方が一番幸せで賢明な人生の選択なのかもしれないが、ユリヤはそのたった1つの決断がなかなか出来ない。SNSで成功する誰かの人生に一喜一憂し、誰かと比べて鬱っぽくなったり、フラフラしたりする。好きな人と幸せな人生を送るものの、別の異性が気になってしょうがない。そんなユリヤの焦燥を今作は実にあっけらかんと紡いで行く。男から見ればこの女「酷えな」かもしれないが、女性からすれば切実で生々しく、あまりにも身につまされる話なのだ。しかも信じられないことに今作を紡ぐのは女性ではなく、ラース・フォン・トリアーの遠縁にあたるヨアキム・トリアーという男性なのだから恐れ入る。田舎からギター担いで都会に出て来たバンドマンが、30までに芽が出なければ田舎に戻り、家業を継ぐなどというのはもはや昭和の価値観で、コメディアンの錦鯉に限らず、今や大器晩成タイプがゴロゴロいるのが令和のご時世で、先進国においては結婚の適齢期も年々上がり、今や初産が40過ぎてからというのも珍しくない。人生100年時代を迎える我が国でも、女性の社会進出や終身雇用制度の崩壊、それに伴う転職などもあり、人生どこで何が花咲くかなんて誰にもわからないとも言えるのだ。ユリヤはアクセルと一緒にいることで彼の包容力に甘えられるものの、定まった人生を送るアクセルの姿を見ているとただただ焦らされるばかりなのだ。

 「大人になりなさい」と人は言うかもしれないが、人生はないものねだりであり、出会うタイミングも決断も偶然に左右される。だからこそもっと早くに出会っていればという物語上の鉄則はいつまでも普遍的なのだ。30で自分を産み、育ててくれた母親への敬意を持ちつつも2人をあっさりと捨てた父を憎み、ユリヤは自分が主役の人生を歩む。人が人を好きになることは自然な行為だが、互いの時期が被っていてはならないと決めるのは社会の因習と見えないルールだ。アクセルを愛しながらも、同時にアイヴィン(ハーバート・ノードラム)に恋焦がれる。彼女がこの自分の欲望を露わにする場面は本作のハイライトであり、時が止まったかのような世界の中でヒロインはバリスタのアイヴァンと情熱的なキスを交わす。街を歩く彼女の様子は幸せな笑みをたたえながら、その足取りは軽やかに見える。非常識の謗りを免れぬその足取りは社会の目から解放され、実に生き生きと、軽やかに時を刻む。時間すらも優雅にコントロール出来るかに見えた大人になりきれない大人のための映画は然しながら、人生の残酷な有限の時間にユリヤを容赦なく陥入れるのだ。この妥協なき人生の拘泥の演出が実に見事で容赦ない。選択する人生と決断させられる人生とのレイヤーを微妙にずらしながら、ユリヤの永遠だと思っていた観念に見切りを付けさせるクライマックスの展開のリアリティには唸らされる。普遍的でありながらも21世紀的な時代性を盛り込み、着地点をはっきりとずらして行く。自分探し映画のある種の最前線に位置すると言っていい。
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