バラ科

劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してるのバラ科のネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

傷ついた子供たちが愛を知る物語。
ピングドラムは生きる意味、運命の赤い果実を一緒に食べようは共に生きようと伝えること、運命の赤い果実を分け合うことは同じ痛みを分かち合う(抱き合い同じ炎に焼かれる)ということでもある。

この世界では桃果だけが「愛するということ」ができる特別な人間だった。特にそれは傷ついた子供たちに向けられた。
箱の中も檻の中もこどもブロイラーもきっと同じだ。
親の価値基準で評価され見放され心に穴が空いた子供たちは、誰かに選ばれることや求められることをそれぞれの場所(心の底)でずっと求めている。見つけてほしいと願っている。

亡霊の眞悧はそこから「世界が間違っている」と信じることでしか生きる痛みの意味づけができない大人の象徴で、特に彼の場合は運命の果実を分け合う相手がいなかったのだから当然だ。
多蕗もゆりも信念は似ている。彼らも「そのままの自分でいいはずがなかった」。
だってもしそのままの自分でいいのであれば、どうして自分は選ばれなかったのか?求められなかったのか?愛されなかったのか?その理由を「自分の欠損や価値のなさ/もしくは世界のシステムのせいである」と無意識に決めてしまったから、その基準に沿わない世界の方を否定する。
眞悧は取引でなく運命の果実を分け合える世界つまり桃果や高倉兄妹を、多蕗とゆりは自分を愛してくれた唯一の桃果が存在しない世界を。

それぞれの犯罪行為は怒りの表現でもあり、自分はここにいて悲しかったという意味合いにも受け取れた。反旗を翻すことでしか気持ちを出せない非行少年と同じだ。歪な形で世界を否定する未成熟な大人たち。

冠葉も幼い頃から自己犠牲しか愛の形を知らない傷ついた子供だった。
冠葉と桃果の違いは自分自身の存在をありのままに受容できているかという土台と、自己犠牲が愛の表現なのか愛した結果(代償)なのかというところにある。
だから冠葉はどれだけ犠牲を払っても「何も渡せていない」と悔やみ自己否定する。けれど何もしなくてもあなたはそのままでいいということ、これが「愛してる」ということで、それが彼の本当の光になった。かつて傷ついた子供であった陽毬がこの役割を担っていることにも大きな意味がある。

愛の感じ方は人それぞれで
冠葉にとっては陽毬が自分の傷に気づいて傷口を塞いで隣で笑ってくれたことが、
真砂子にとっては冠葉が兄としてただそばにいてくれることが、
晶馬にとっては陽毬が心を開いてくれたことと冠葉が運命の果実を分け与えてくれたことが、
陽毬にとっては晶馬や冠葉が自分を見つけてくれたことが、
多蕗やゆりにとっては桃果の自己犠牲が、
救いであり愛だった。それゆえに特別な存在となった。

ただそれをずっと求め続けても受け身ばかりで何者にもなれない。心の穴を埋めるような愛し方も一方向で結実しない。生きることが罰になってしまう。
だから私たちは自分の生きる意味を決めて自分の足で踏み出さなければならない。
最後の2人の会話からの示唆は、「どうありたいか決めていれば、どこにいくかも自分で選べる」ということ。

運命は切り開ける。選択には代償や責任も伴うが、信じて進めばきっと何者かになれる。
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