ばっちぼっちすてーしょん

LAMB/ラムのばっちぼっちすてーしょんのネタバレレビュー・内容・結末

LAMB/ラム(2021年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

公開されてすぐ、話題は耳に届いたが映画館へは見に行けなかった作品。思っていたより大分早く配信されたので2023年の映画初めとして視聴。

本作はアイスランドを舞台にした、雄大な自然と共に暮らすイングヴァルとマリアという羊飼いの夫婦の話だ。
クリスマスが過ぎたある夜、2人は羊が産んだ謎の生き物をアダと名付け育てることに。
頭と右手は羊、それ以外は人間の身体をしたアダ。我が子のようにアダを可愛がる2人には、過去に同じ名前の娘がいた。
金の無心かマリアへの下心か、イングヴァルの弟ペートゥルが転がり込み穏やかな生活に波紋が起きる。
ペートゥルの嫌悪感はアダを連れ出し銃を構えるほどだったが、次第にアダに友好的になり、3人とアダは楽しく幸せに暮らしていた。
しかしその幸せは長くは続かず……というストーリーである。

本作の監督であるヨハンソン監督は、解釈は観客に委ねるスタイルのため、作品の意図や解釈の明言はない。
ギリシャ神話やキリスト教と絡めた解説が多いが正解を知ることは出来ないだろう。

ただ、ラストシーンでアダを連れて行ったあの獣人によってマリアたちの羊は獣姦され、そしてアダが産まれたことは間違いないだろう。あの獣人も、どこか別の場所で同じように生まれ、そして人間の元で育てられ(たか、あるいは気味が悪いと捨てられ一人で生きてきたか)子孫を残すために羊を襲ったに違いない。
イングヴァルの殺害手段に銃を選んでいるあたり、知性と経験があるのは間違いないだろうし、あの獣人も人間に育てられた経験があるのかもしれない。

まとめると、この話は一体どんな話だったのか。それを考えると、つまりは人間のエゴと因果応報を感じるストーリーだったように思う。
マリアがアダの実母の羊を殺し埋めたこと、ペートゥルがアダを殺そうとしたこと、そしてあそこで殺さず生かしたこと、人間ではない生き物に死んだ実子の名前をつけ人間のように可愛がること。
これらは全て人間のエゴである。他者の命を生かすも殺すも、自身の損得や欲求に従い選択する時点でエゴは付きまとう。
本物のアダを目を離したすきに川の事故で亡くしたのかもしれない。だが、死んだ娘の名前を付けられ育てられたアダがまともに育つだろうか。マリアたちがただ自分たちの悔いをやり直したいだけのように感じる。
そしてイングヴァル。彼はアダについて何も言わずただ可愛がった。静かに受け入れ、ひたすらに愛した。ではこれはいいのか。いや、そうではないと私は思う。
イングヴァルはアダを受け入れたのではない。実子のアダの死を未だに悔い続け未来を向けないマリアを少しでも過去から目を背けられるように、アダを身代わりのようにしていたとも考えられる。あのアダへ、実子のアダへ注ぐはずだった愛情をそのまま注ぐマリアを見て、本当の幸せを手にしたと思っていたとは考えられない。
ペートゥルへアダを幸福の象徴かのように言ったのは、アダを育てている精神状態のマリアと自分の事を言っており、自分・マリア・アダの三人家族が幸せという事ではないのではないだろうか。
アダを利用してマリアをより前向きにしようとしていた。イングヴァルは、アダという存在ありきの疑似家族ではなく、本当の家族が欲しかったのだと思う。作中のセックスにはそういう意図があるのではないだろうか。
そしてペートゥル。彼の抱えるエゴについては言うまでもない。金の無心に転がり込み、マリアに好意を寄せ、アダを殺そうとし、そして生かした。結果として彼は生存するわけだが、イングヴァルがいなくなった今後どうなっていくのかはわからない。

それぞれエゴを抱え、そしてマリアとイングヴァルは罰を受けた。
実母羊を殺したマリアは、彼女にとって一番大切な家族を。
未来を見続けアダを利用していたイングヴァルは、彼の未来自体を。
それぞれを奪われた因果応報な話だったわけだ。

叶うなら、どこまで感じ取れていたのか、監督の思い描き映し出した表現の全てをいつかひとつひとつ知って答え合わせしたいものだ。