ユーライ

パリ、テキサス 2K レストア版のユーライのレビュー・感想・評価

4.2
そのとき雄一郎は亀有署の会議室にいたのだが、蛍光灯の明かりだけが白々しい殺風景な空間と、安物のパイプ椅子に座っている疲れた中年男の姿が夜の窓に映っているのを、ただ眺めるともなく眺めながら録音を聞いているとき、ふとこれはどこかで見た光景だと思い、どこの、何の光景なのか思い出そうとして少し気を散らした末に浮かんだのは、『パリ、テキサス』だった。そうして味わったのは、主人公の男が、逃げた妻を捜し当てた先のテレホンクラブのような風俗店で、相手の声だけを聞きながら昏いマジックミラーに見入る時間の、あの触れられそうで触れられず、分かるようで分からず、痛みなのか甘美なのか、怒りなのか後悔なのか、悲しみなのか悦びなのか、首筋をかすめてゆく微風のようにあいまいな、プライベートのなかのプライベートの感じだ。しかもそこには、赤の他人がそれを覗き見している隠微さがあり、戸田の声を聞いていたその十数分というもの、雄一郎は自分もまた主人公の男と同じキー・ホール・クラブの客になり、同時にどこかの映画館の観客になって、声の主の時間をしばし共有していたのだった。
(高村薫『冷血』下 P282~283)
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