このレビューはネタバレを含みます
武本里枝は勤め先の文具店で雷雨の日に谷口大祐と出会う。趣味で絵を描いていた谷口はそれからも文具店を訪れ、2人は親密になっていく。
そして、友達となり、谷口夫妻となった。
数年経ったある日に、谷口大祐は仕事中不慮の事故で命を落とす。その葬式にやってきた大祐の兄 恭一が発した言葉から事件ははじまる。
「この男は大祐じゃない」
「愛したはず夫は、まったくの別人でした」のキャッチコピーが強烈な邦画。
そのコピー通り、死んだ谷口大祐だと思っていた「ある男」を追うヒューマンドラマとなっています。
戸籍交換を追った作品でありますが、その謎解きの要素は穏やかであり、本質は「自分はなんだ」という自己同一性の話題にあったように思います。印象としてはミステリー的な気持ちよさではなく、陰鬱で静かな物語です。
ラストシーンのバーカウンターでの一幕のように、私たちは誰もが、多くの仮面を適宜付け替え生きています。
その行動は生きやすくするために主体的に行っているように感じますが、その根底には「他人からどう思われるか」を恐れた意識があり、結局は「自分がどんな人物であるか」は他人によって決められているのではないでしょうか。
原は、事務方からは「薄気味悪い」とされましたが、彼の実直な仕事ぶりによって林業の親方は「落ち着きのあるいい子」だと言ってくれました。ボクシングジムでも最初は「怖い」と思われていましたが、その実力によって周囲を味方にしていきました。彼は「他人からどう思われるか」は努力次第でなんとかなると(無意識だとは思いますが)証明し続けました。
そんな彼にも、そして優秀な人権派弁護士である城戸にも「努力次第」ではない評価によって与えられたレッテル──前者は「殺人鬼の息子」であり、後者は「在日外国人」──がありました。
原はそれを戸籍を捨てることで剥がしましたが、城戸は家族がおり弁護士という立場でそれができないため、他人の人生を擁護すること、その弁護によって感謝されることで自分でメンタルケアをしています。
結局、「他人からどう思われるか」は努力次第な問題ではないんだと言われているような気がします。
城戸からの報告書を読んだ里枝は、原の行いを「それはハッキリとした事実」と言いましたが、これはとても皮肉めいた台詞です。
原が信頼を勝ち取るためにした努力も、彼が殺人鬼であることもどちらも事実です。
そして、努力から得た評価も、レッテル貼りも、どちらも「他人からの評価」です。
林業の人も、ボクシングの人も、里枝たちも誰も彼を「殺人鬼の息子」とは知らないから成立した出会い、評価であり、弁護した労災の遺族たちも城戸が在日外国人であると知りません。
里枝が真実を知ってなお肯定してくれた事実は原にとって幸せであったとように思いますが、そんな些細な光がこの作品における最高潮のシーンであったことが、むしろ「自分がなんであるか」は「他人からどう思われるか」で決まり、それが「努力次第でない」という悲しい構造の闇を意識させます。
そんな構造を生み出す、レッテル貼りやヘイトスピーチは批判し、この世からなくなることを望みたいところですが、本作におけるその描写がリアリティに富んでいたことを我々は知っています。悲しいことですね。