ニューランド

零へのニューランドのレビュー・感想・評価

零へ(2021年製作の映画)
3.7
 遅ればせながら、世代的なズレで’70年代半ばから、ニュー·アメリカン·シネマには惹きつけられていったが、日本の実験映画に関しては、原将人以外には殆ど知らなかった。それが’80年代序盤に偶然、奥山順市·伊藤高志を知って、日本映画はこの分野でも、世界一線だと知り、やがて'80年代後半から、この2人を抜けたかどうかは別にして、逸材が続出してゆく。奥山の方がラジカルだが、一般には伊藤の方が口当たりがよく、かつ刺激的で、映画としてのフォルムの普遍的造型が、ズバ抜けてる。緻密で正確·徹底的なコマ撮り、計算し尽くされた入れ子形式のパースペクティブ、所構わぬ再撮やカメラのバルブを開いての光の限りない増長·ゴースト化。出世作の『SPACY』は特に人気で、テレビでもNHKで繰返し放映された。
 その作家が長編の準劇映画を撮るようになって、初っ端辺りを観た気がするが、どうにも生ぬるい印象で、以降タイミングもあるが、全く観ないようになってしまった。全盛期の短編再映も含め少なくとも21世紀に入っては観てないと思う。もうその道の年季も入って来たかと見ることにする。
 本編前に、舞踏·映画製作様々な分野の演者らがその日常や表現活動が紹介され、蛸壺に入らず様々な分野のクロスの要、内面が外面化するダイナミズム·インパクト、無意識の内なるダークな部分引出し嗜好、らが語られ、見た目の綺麗な処理と言うより、映画の本質に繋がるイメージやフォルム·音響が繋ぎ出されてく。工作·出逢い·接近·共同作業·闘い·逃走らが、説明なく、キャラを次々にしかし違和感なくどこか同志如く、登場させ、絡ませ対峙させてく、別にリベット的陰謀や、ハリウッド的組織国家犯罪が見えてくる、内的外的スペクタクル·ワクワク想像を刺激する作品ではない。そもそもストーリーも台詞らしい台詞も、前提としてない。かといって、特殊なレンズやフィルターを使った映像マジックを誇ったり、特殊高度なモンタージュで異次元の思考レベルを誘ってくる作品でもない。嘗ての純粋な実験性の追求というわけでもない。
 映画的な純粋な視覚·視角を押えそれを持続してゆく事の、自然体も今や忘れられた高邁を実行しているようにも見える。その意味では作品の尺数やカットの細かさ·カメラワークやビジュアルの変容はまるで違って見えても、この作家は純粋に動画映像のピュアさ·屹立する単独の力の見極めを変らず行っているのかもしれない。
 巨大な架橋とその下、野球部かなんかの練習場と見下す小スタンドも、薄暗い室内のシルエットめと不必要な奥行きも、敷き詰められた緑と掘り返される土色も、周りが切り立った狭い路地への逃げ込みやそこからの現れも、埠頭·湾岸の囲み方も、包まれ埋められ掘り起こされる手首のフィギュアめも、まず、映画としての或いは人の無意識の関心が、その図を決め、最も求めてた図なのに、見る者を驚かす。90°変の横顔、後頭部をナメての半視界図、見る側を捉える仰角やその位置からの眺める世界と·そのより地に近い図、手元(が重なる)CU、フォロー移動もデクパージュの一部には収まらない、激しい憑かれた動きへの平然もフィット、対してる相手が実体か幻か分からぬ行き来する重ね焼きや消失。次々にメイクや衣装が半ば異次元のキャラが現れるも·それ以前の存在感がある·消えて行っても。
 死や闇·内部が絡んでくも、湿っぽく縮まってはゆかず、公正な映画や人の生きた意識が存在する本質へ一足飛びの明晰さがあり続ける。ただ、こっちの心にまでは染みて来ず、(本質の似た)キャラがこれ程までに多様に入替っては、組み直す展開は、甘い物好きの私には、必ずしも好ましい、とも云えない。
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