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あなたの顔の前にのnetfilmsのレビュー・感想・評価

あなたの顔の前に(2020年製作の映画)
4.3
 元女優のサンオク(イ・ヘヨン)は長いアメリカ暮らしから突然、祖国である韓国に舞い戻る。妹ジョンオク(チョ・ユニ)の所に身を寄せながら、彼女は微睡から目覚め、ソファーの上で贅沢な時間に思い巡らす。テーブルの上には無造作に眼鏡が置かれている。妹はそんな呑気な姉貴の帰国の理由をあれこれ詮索しようとするものの、微妙にはぐらかされる。姉妹の久方ぶりの時間は2人にとって真に愛おしい時間となるものの、2人には長いブランクを埋めるだけの共有した時間があまりにも少ない。そのことが妹のジョンオクにとっては嘆かわしい。濱口竜介の映画よりも遥かに前から『偶然と想像』めいた映画を撮り続けている韓国の奇才ホン・サンスは、コロナ禍に信じられないことに撮影まで始めてしまったと言う。名カメラマンであるキム・ヒョングとのパートナーシップを解き、監督・脚本・撮影・音楽・編集までこなした映画は、極めて私的かつプライベート・フィルムのような佇まいを見せる。フィックスされたデジタル映像は姉妹のギクシャクしたやりとりを余すところなく伝える。背景に高層マンションの見えるテーブルでうっかり話し込む姉妹。ジョンオクの熱心な勧誘を姉はのらりくらり交わす。妹の祖国での人生の縮図をうっすら覗き見たあと(そう言えば今作の息子との描写は『イントロダクション』と地続きの印象すら受ける)、サンオクは桃色の一張羅をあろうことか、キムチの赤で汚してしまうのだ。

 韓国を象徴するようなキムチの赤は、自身の栄光の時を取り繕おうとした元女優の無計画に見えた計画を台無しにする。それ自体が茫漠とした夢から醒めるような警告なのかもしれない。一度は妹の部屋に戻り、体裁を立て直そうとしたサンオクはやがてその格好で良いと諦めを付けるのだが、自身の作品への出演を懇願する監督と会う前に彼女は梨泰院にあったはずのかつての生家へと寄り道するのだ。信じられないことにその場所は、遥か昔の光景を奇跡的に留めている。時が止まったようなかつての生家で出会うジウンと名乗る少女は、かつての自身の姿そのものだ。公園で偶然出会った女優時代を知る者も、生家に佇む少女も、30年前の自身の姿を夢想しながら熱烈オファーをくれる監督の姿でさえも彼女をあの日あの時に留めようとするのだが、そこに在るのはすっかり年老いたサンオクの姿なのだ。教授または映画監督が見知らぬ街で誰かと出会い、愛を育んだかつてのホン・サンスのフィルモグラフィとは一変し、ここ数年はホン・サンスは大真面目に「死」を明確な主題に忍ばせて来た。ここではかつて一瞬輝いた女優の郷愁の念をスクリーンの前に晒し出す。決して上手くないギターを爪弾いた後、有限の時間の告白が無造作に置かれた無機質で殺風景なデジタル・カメラの前で繰り広げられる。

 イ・ヘヨンと言う伝説の女優の痩せ細った身体が醸し出す死への気配に監督が魅了されたのは明らかで、ここには捨て去った過去と対峙するサンオクの郷愁の旅が実にあっけらかんと繰り広げられる。近年稀に見る淫靡な路地裏への大雨の中の彷徨(真に名場面)のあと、サンオクは録音された音声に文字通り笑い転げる。憧れの終わりを連想するシリアスな録音はテキストとして見ればいかにも深刻だが、当の本人の反応はシリアスさの欠片もない。12時を過ぎるまで語られることのないうたかたの夢は、夢のまま遂にスクリーンで語られることはない。在りし日の夢はまぼろしの中から朧げに現在に向かい語りかけ、朧げな未来は夢幻の中で起こり得る未来として信仰とは別に処理される。ひたすらシンプルに極限までミニマルに削られた余白だらけの物語は、朴訥としながら無へと近づいて行く。物語や役者の身振りなど、そこにあったはずのものは全て過去になる。ホン・サンスにとって時間の感覚とは、我々とはまったく違っている。全てははっきりとした無へと向かうように見える。
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