麻生将史

オッペンハイマーの麻生将史のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.3
冒頭のプロメテウスの説話が、この映画を象徴するにあたってこれ以上にないというくらいに効果的な引用でたまげた。
そこから続くイメージ群。連続する池の波紋、その干渉縞の広がり、粒子の発散、震える波の束、音の圧、拡大していく炎。この1,2分の映像がすごかった。

3時間の大作だが、思っていたよりも編集のテンポが速く、展開もタイトなので間延びするシーンはなかった。
いや、公聴会の場面はなっがいが、あれはオッペンハイマーの主観時間なのだと考えれば納得できる。
だがここら辺は自分には難解で、予習した以上のディテールは掴めなかった…。
終盤、さすがに冗長だなあと思ったあたりで急に出てくるアインシュタインが面白かった。話が停滞しだすと登場するサプライズニンジャならぬ、サプライズアインシュタインだ。

印象的なシーンを列挙していくと、まずはトリニティ実験の場面。無音と光と爆音の演出。「我は死なり、世界の破壊者なり」が恐ろしい。

そしてやはり、白眉はそのトリニティ実験後のオッペンハイマーの演説シーンだろう。
聴衆の足音と歓声のけたたましさ、しかし反するように遠ざかる音、震えだす空気、青白い閃光、一瞬の悲鳴。そして無音、みんな消える。爛れた顔、焼死体を踏み抜く。嘔吐する青年の睨むような眼差し。このシーンはちょっとないくらい凄かった。

そんな中で自分がなぜか印象に残ったのは、映画序盤、公聴会の場面でマジックリアリズム的ともいえるようなジーンとの情事の演出だった。
オッペンハイマーという歴史上の人物を基に、史実に則った硬派な内容だろうと予想していたため、この演出が意外に感じられたからだった。

しかしあるいは、この「マジックリアリズム的」という事が、実はこの映画の重要なエッセンスなのではないかと思いはじめた。
似たニュアンスの演出は他にもあって、スーツ姿のまま戦闘機に乗るオッペンハイマー、何発もの弾頭が飛んでいくのを幻視する場面。演説の最中、壁が震え白い光に包まれていく場面、顔が爛れる人、焼死体を踏み抜く彼、池の波紋が爆撃と重なって見える演出。そして最後の、炎に侵されていく世界。

これらの演出を私になりに解釈してみると、“現実”というものは私たちが考えているほど確かなものではない、という事なのかもしれない。
いまそのようになっているのはただの偶然でしかなく、次の瞬間には何もかも反転して、一瞬にして秩序が書き換えられてしまうかもしれない、という感覚。
マジックと言うが、むしろそういった描き方の方が、ある種私たちが接している“リアル”に近いのではないか。
そしてそれは、(全くの素人なので適当に結びつけるけど)量子論の確立解釈とか、“重ね合わせ状態”とか、あるいは多世界解釈、マルチバース的不安とでも言おうか、そういうものとも無関係ではないように思えた。時系列をシャッフルした作劇の必然性もこれで説明できる。

砲弾の描く放物線よろしく因果律が支配する世界ではない、すべては確率で、マジックで、ほとんど空っぽの体を生きる世界。
オッペンハイマーたちの開発した核兵器は、実際的な意味では、人類に自らを滅ぼす力を与えたともとれるが、さらに象徴的な意味では、一瞬にして現実が書き換わる、即ちそれまで考えられてきた“現実”を相対化・解体した、とも解釈できるのではないか。
まさしく「“新しい物理学”ではない、“新しい世界”だ」というように。

ノーラン監督は、戦後の世界の潮流(SNSがこれをさらに加速させた)や、昨今のマルチバースブーム、そして量子力学的解釈を絡めて、この『オッペンハイマー』という物語にそれを象徴させたのではないかと思った。
即ち、「核兵器というのはただの高威力新兵器なのではない。これまでに作られた兵器と比しても全く異質な代物なのだと」「現実を簡単に異化してしまえる物なのだと」いうことを。

「私は世界を破壊した」
ラストのオッペンハイマーの眼差しが多くのものを示唆している。


(ただまあオッペンハイマーにそこまで背負わせるのは筋違いなので、あくまで映画的演出を僕が勝手に解釈した、ということだ)

(今読み返してみてちょっと言い過ぎな気もする)
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