篠村友輝哉

オッペンハイマーの篠村友輝哉のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
緊迫感と不安が持続する、重苦しく、濃密な三時間だった。劇中を貫く音楽の五度下降が印象的なモチーフが耳を離れない。
映画の外観の揺るぎない構成美のなかで、たとえば『インセプション』では「夢(虚構)と現実」、『インターステラー』では「公と私」というように、常に二つの相反するものの揺らぎ、相克を描いてきたノーランだが、新作『オッペンハイマー』では、これまで比較的形而上学的に追求してきたその主題を、自身の映画語法の限りを尽くして、いよいよ具体的な人間の内面に肉薄するかたちで描き、さらにその先に、この世界の不安と絶望、虚無の根源を突きつけて見せた。
前作『TENET』の序盤には、フェイという人物が主人公に言う、「『TENET(主義、信念)』という言葉は慎重に使うように。開くのは正しい扉だけではない」(大意)という台詞がある。『TENET』は、起こったことの意味や理由が分かるのは未来においてであり、その結果は変えられない──つまり自由意志というものはないのだとしても、その自分の手の中で起こったこと、起こってしまったことをどういう主義で受け止めるのか、という問いを私は受け取ったが、フェイの警告の通り、主義や信念というものは実に揺らぎやすく、また、危ういものでもある。やはり善と悪の揺らぎを描いた『ダークナイト』で、善というものがたった一押しで悪に転落してしまうことが示されていたように。
オッペンハイマーが物理学に期待していたのは、左翼思想への関心と同様、そもそもは世界の破壊ではなく、新しい世界の創造への希望であったはずだ。その信念が、軍事や政治の接近、ユダヤ系であるがゆえにより切迫したナチスへの恐怖、創造者としての止められない本能などが重なり、全く反対の結果をもたらす信念へと接近していってしまう。
冒頭から圧倒的な音響と映像表現によって観客に浴びせられる、オッペンハイマーが想像する原子の運動をはじめとしたさまざまなビジョンは、彼の危うい精神と心模様と一体のもので、映画は、その激しい葛藤や揺らぎ、原爆投下後の彼の激越な罪の意識、言われなき疑いをかけられた苦しみも容赦なく体感させる。
オッペンハイマーには確かに、科学者としての天才と結び付いた、人間的な欠陥と幼さがあった。だがそれも含めて、映画を観ていると、それらは彼の純粋な意思ではないものとして、オッペンハイマーという、幼さと表裏一体の誠実さと純粋さ、脆い心を持った人間にのし掛かった宿命であったように思えてくる。
しかし起こってしまったことは変えられない。映画は最後に、核実験によって連鎖反応を起こしたのはある意味、人間の歪んだ信念のための私欲だったことを示し、本来の信念を貫けずにそのボタンを押してしまった人物として、オッペンハイマーを許さない。彼が想像する破滅のビジョンが提示される、黙示録的な結末の投げ掛けるものはどこまでも重い。
同時に、これは原爆開発者や科学者の物語に留まらず、創作とその受容一般の問題をも思わせる喚起力がある。一度ではとても抱え切れない巨大さを持ったこの作品を、あの五度下降して二度上がるモチーフを耳によみがえらせながら、少しずつ受け止めていきたい。

*ここには観たその日の興奮のままにまとまらない感想を書きましたが、後日(4/20)、もう少しまとまったものをnoteに載せました。
https://note.com/shinomuray/n/n3a165ddb4d72
篠村友輝哉

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