Schiele1918

オッペンハイマーのSchiele1918のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.7
様々な触媒によって増幅された仮りそめのイメージを欲望することで人は新しい地点にたどり着くが、それがどれほど現実に近いのか、現実がイメージしたものとどのように関わるかは、そのものが現実なった後でもわからない。
過ぎ去ったあとにも、やはりイメージとなった現実の残響が顕れる。その扱いはむしろ、現実に現れる前より難しい。

オッペンハイマーの物語であるが、戦中から戦後の赤狩りの時代を往復する中で繰り返されるのはアメリカの持つ過去の“恐怖のイメージ”と、それに振り回された記憶の物語だ。
日本に、広島に、長崎に投下されたイメージが間接的でありどこまでも喚起的なものに留まるのは、アメリカがそれを超えることの不可能性、イメージが辿り着けない、辿り着いてしまうことのある種の不実さによるものと考えることができる。
監督制作陣の意図は様々に取れるし、それを受け取る側もそれぞれの立場で受け取るべきだ。
日本人であり、被爆者の中沢啓治氏の物語、投下後の広島を目撃し絵画に残した丸木夫妻が描いたもの、あるいはこうの史代作「夕凪の街 桜の国」のように戦後にその物語や記録からイメージされた作品が数多く残されているのは途方もない財産である。
同様に、米国にもその自身を振り返りそのイメージの範疇の中で描き得る物語がある。そういった視点の中の限界への誠実さは、一種脅迫的なほどこの作品を一貫したテーマとして補強している。

オッペンハイマーは数式の中の弾ける宇宙のエネルギーを慄くほど克明に浮かべる。
しかし映画は彼の視点から、原爆の焔の下で黒い消し炭になり、泣き叫び、崩壊する人と都市を直接的には描かない。
その意味するところは、これから先ますます、そしていつかは確実に遠ざかる戦争の歴史を、加害者としても被害者としても近く忘れてしまうであろう私達日本人が真剣に受け止めるべきなのは間違いないと思う。
この映画自体が触媒となって、新しいイメージを喚起するかもしれないし、一日の余興になるかもしれない。
ともかく、ようやく日本にその波が及んだことはまず持って喜ばしいことだ。

人物の名前や立場を覚えるのが苦手な人は、映画を見る前に細かい人間関係について予習しておくといいと思う。経歴を含むネタバレ的なものは映画の味を損なわない。
加えて、マッカーシーが主導した“赤狩り”についてはしっかりした知識が必要。
公職追放や亡命など、アメリカがもっとも全体主義的になった時代は核の突きつけ合い以上に人々を苦しめた、間違いなく暗黒の時代だった。
その源泉になったのは目に見えない思想への恐怖。
見えないものほど恐ろしいものはない、だから実現したくなる。だから抹殺したくなる。
民族の血も、イデオロギーも、核分裂のエネルギーも…。

※追記として、鉄条網に囲まれた荒野で生活する計画の参与者の姿は強制収容所で生活することになった日系アメリカ人の姿と重なる部分もあった。
強制収容所がアメリカにもあり、そこで軍に監視されながら汚名を着せられた日系人がいたこと。
日本人なら、それもまたイメージの中に顕れるものであるべきかもしれない。
徹底して日本人への悪意が削られているという指摘もあるが、それも含めて“現代の視点からのイメージ”に過ぎない映画なのだ。
核の被害を受けながら核の傘の中で発展し、被害者像としての被爆国日本にセンチメンタリズムを感じる我々の浸るイメージにもまた懐疑的でありたい。
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