ユンファ

オッペンハイマーのユンファのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
絶対に己の信念を曲げない男が作った、絶対に己の信念を曲げない男の伝記映画。

フィルマのレビューで、オレはノーラン作品が嫌いだと書き続けてきた。お前は一体何様だよって感じだが、ここに和解を宣言したい。
これは事件だ。なにせオレの人生ワースト映画はみんな大好き「インターステラー」なのだから。今のオレはまさに、「がんばれカカロット…お前がナンバーワンだ!!」の心境である。
そうならざるを得ないほど、「オッペンハイマー」は歴史的大傑作だ。

カラーとモノクロの異なる2つの主観のみで描写される、希望なき現在〜過去〜未来。
この"主観のみで"というのが極めて重要だ。本作の日本公開が遅れた(なんなら見送られかけた)最たる理由は、コレだろう。
広島や長崎を未体験の主観のみで物語が語られる以上、それらの直接的な描写は出来ない。しかしながらそれは、日本人には受け入れられない可能性が高い。
フィルマのレビューを読んでいても、実際そう受け取る人が多いようだ。
繰り返しになるが、そうした指摘の多くはお門違いで、ラーメン屋に行ってハンバーグを出せと言っているようなものだ。世の中には美味いハンバーグを出すラーメン屋もあるだろうが、最初に書いた通り「オッペンハイマー」は絶対に己の信念を曲げない男が作った創作物である。
決してオモウマい店などではない。

もう一つフィルマのレビューを読んでいて気になったのが、「お馴染みの時系列シャッフルが上手く機能していない」という指摘。
これについても、全く共感しかねる。
仮に本作が時系列通りに編集されたとしよう。たしかに今よりも分かりやすくはなるだろう。本作が理解できなかった、感情移入できなかった、イマイチだったと感じた観客の評価も幾分ポジティブなものに変わるかもしれない。
しかしそこからは、"時系列シャッフル編集された本作からのみ感じることの出来た何か"が確実に失われる。
オレが時系列シャッフル編集を推すのは、その"何か"に深く共感したからに他ならないし、実際ノーランが最も描きたいことも間違いなくそこにあるのだ。

当たり前だが、本作は映画である。
単にロバート・オッペンハイマーが何をしたかを知りたいなら、ググるなり、関連本を読むなり、YouTubeで関連動画を見るなりすればいい。
だが本作は映画なのだから、「オッペンハイマーが紆余曲折あった末に原爆を作りました。その後なんやかんやあって、公職を追放されました」では十分とは言えない。
映画はもっとたくさんの、言葉にし難い感情や感覚を伝えることが出来る。
そうした映画の可能性を信じているから、ノーランは果敢に時系列シャッフルを行うのだと思う。

時系列シャッフルによって意図的に物語を追い難くさせ、更に主観のみの描写で、次第に追い詰められていくオッペンハイマーと観客を同化させる。そこへストローズ視点のモノクロ場面を随所に挿入することによって、観客を映画の外へと弾き出す。かと思えばオッペンハイマーの主観へと戻り、再び観客を映画の内側へとグッと引き込む。
この運動の連続が本作を形成している。繰り返される"分裂"と"融合"が、連鎖反応を起こすかのように。
音響と音楽が、断絶された時間と空間を接着し、一つのアクションやカット、アングルに留まることなく、映画はただ流れ続ける。
そしてそれは、人類史上最も重要な瞬間によって半ば強制的に停止される。
再び流れ始めた時、それは以前とは全く異なるものになっている。
時の流れは不可逆だ。一度起こってしまったことは、決して変えることは出来ない。

「オッペンハイマー」はこの特異な構成により、鑑賞中も常に明確な作為を感じさせる。「この作品は間違いなく人が作ったものなのだ」と。同じことが、作中の原子爆弾にも当てはまる。
ここで研究オタクのオッペンハイマーと、映画オタクのノーランが交差する。常に何かを夢想しているオッペンハイマーの姿は、そのままノーランのそれに重なる。
「インセプション」や「TENET」と地続きの、人が想像し、創造し得るものの可能性。
それは世界を破壊することも、救済することも出来る。本作が描くのがどちらであるかは、言わずもがなだ。

「オッペンハイマー」は、最後の最後まで悲壮感や絶望感といったネガティブな感情に支配されている。こんな時代だからこそ、明るく希望の光を垣間見せて幕を閉じるべきなのかもしれない。
けれど、希望は過去でも虚構の中でもなく、まだ見ぬ未来にある。
目に見えない何かを想像し、世界を一変させてしまうような何かを創造することは、オッペンハイマーやノーランの専売特許ではない。
ならば、、、

穏やかな夜に身を任せるな
消えゆく光に向かって、怒れ、怒れ
ユンファ

ユンファ