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オッペンハイマーのryoのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
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複雑で微妙な人物像、歴史的立ち位置にあるオッペンハイマー、ロスアラモスでマンハッタン計画を率いた原爆の父でありながら完成の際にはバガヴァット・ギーターを引用して悔いてみせ、水爆に反対して赤狩りに遭った人物を描いた作品として、現在、殊にアメリカにおいて、作られ観られる意義のある作品、とは思った。

が、映画内で会議(や屋内での会話)の描写が長時間を占める、画に魅力を作ることが難しい(ながら工夫次第で面白くなる)会議室映画として、たとえば《十二人の怒れる男》《日本のいちばん長い日》、近年では《シン・ゴジラ》といった作品群ほど魅力的だったか、と言うと、うーん、という感じ。題材として描こうとする人物や出来事の複雑微妙さと、序盤のテンポの速さやカラーと白黒の同時並行、回想を伴う時系列のシャッフルという手法が噛み合っていたかどうか。表情や間で語るべき部分がやや手薄になってしまったような気もする。

ハイゼンベルクのカウボーイ、という呼びかけからも、ニューメキシコという土地に拘りハットを被って馬に乗る描写からも、神話なきアメリカの神話たる西部劇が参照点になっていることは明らか。未知の領野たる量子力学の荒野をゆくオッペンハイマー。カウボーイ、ガンマンが、力の象徴として時には先住民と争いつつ、新たな土地に秩序を齎し、しかし土地の秩序が安定するとともに過剰で不要な暴力として流浪せざるを得ない運命にある、という西部劇の物語類型(《ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト》や《シェーン》が典型)からも、また近年のトキシック・マスキュリニティの文脈(《パワー・オブ・ザ・ドッグ》)からも、オッペンハイマーが序盤の線の細さから次第に変貌し、権力や暴力性を引き受ける役回りを演ずるようになる、獲得されたタフさと、同時に才能や立場を過信すること(女性関係や政治への不用意な接近)の危うさ、タフさの崩落、というドラマを、西部劇的描写に仮託した理由はそれなりにあったと思うが、説明しない男らしさ、みたいな西部劇的人物像と、やはりオッペンハイマーという人物の微妙さの喰い合わせがよかったかというと……。

量子力学的イメージをビジュアル化する映像の工夫、爆弾をめぐる科学的におそらくかなり精確な描写、アインシュタインを筆頭にキラホシの如く登場する科学者たちの人物描写など、細部へのこだわりには相変わらずノーランのギークっぷり、好ましい映画オタクの顔がのぞいていた。

題材から言って広島長崎の被害が直接的に描かれるべきではなかったか、という批判があるらしいが、原爆完成の折の演説の場面で熱狂する聴衆に被曝のイメージを重ねる描写、炭化した被曝者を踏んでしまうリアルな感覚が伝わってくるような描写もあり、あくまでオッペンハイマーという一人物にフォーカスしたフィクションとしては、それなりにきちんと責任を取っていたのではないか、とは思う。

(追記、観終えてからーーたぶん高山明さんの『テアトロン』を読んでいたこともあってーーワーグナーと彼の作ろうとした客席について考えていて、自分がこの映画に割合批判的なのは、ワーグナーがバイロイトにセレブを集めて集中と没入を促し、現代の神話を語ろうとしたやり口にこの映画の感触が似ていたからかもしれない、とふと思った。)
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