ひれんじゃく

オッペンハイマーのひれんじゃくのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.0
 見てきた。色々な要素が絡み合っていて感想をひりだすのがまず難しい。全部ネタバレ。
























 まず「『原爆』を作った人の映画だ」と思って臨むと全く違うので肩透かしを食らう。これは私の勝手な思い込みがあったからかもだけど。事前に見たノーランのインタビューで「核兵器が存在している世界でこれから人類はどう生きていくか」ということをかなり念頭に置いている印象だったのが、割とそのまま映像で描き起こされた感じ。あくまで監督がやりたいのは原爆がこの世に産み落とされた「そのあと」なので、広島と長崎に投下されたくだりは必要不可欠なパーツではあれ主軸ではない。「『広島と長崎の件があってもなお核兵器を作り、互いの喉元に突き付け合っている不可逆的な世界』を作った人の映画」と言い換えた方が正しい。気がする。

 よって原爆が落とされてヒロシマ・ナガサキはどうなったか?という描写は薄味。映像としてはっきりと描写されることはなく、セリフでの説明のみ。ただ「自分のせいでこの世界が核兵器のある世界になってしまった」という巨大な罪悪感から、ところどころでトリニティの光景を幻視するシーンで黒焦げに炭化した人や皮膚がずるりと垂れ落ちた人の映像がすこし出てはくる。その程度。個人的にはもう少し突っ込んで具体的な描写を入れてほしかったな…と思ってしまう。実際にもオッペンハイマーはラジオや写真でその惨状を知ったはずで、それに忠実と言えば忠実だけど。この映画を見てる海外の人に被害の様相が伝わるような映像的な描写があったらなおよかったとどうしても思ってしまう。思い込みで話してる部分も多々あるから申し訳ないとは思いつつも、みんながみんなどうしても原爆ドームに行けるわけではないのだし。原爆の何に対して後悔したのか?あの研究者はなにを見て嘔吐していたのか?黒い雨や水を求めて川に飛び込んで亡くなった方々の姿、階段に焼き付いた影を映すべきだったんじゃなかろうか。

 その代わり前述した通り「もはや原爆という一兵器の枠を飛び越え、核兵器そのものという人間にしか作れない常軌を逸した概念を実体化した殺戮兵器を生み出してしまった」というおよそ一個人が負うには重すぎる後悔と罪の意識を一生涯背負ったであろうオッペンハイマーの絶望の眼差しは十分すぎるほどクローズされ、繰り返し描かれている。キリアン・マーフィーのあの特徴的な目が非常に雄弁。あまりにも事が大きすぎて容易に想像がつかないが、アメリカだけではなく多くの国が核兵器を有することでトリニティで見た以上の破滅がこの世界にいつでももたらされうる、そしてそのきっかけを作ったのは(多くの物理学者の協力もあれど)自分である、一度アメリカが核を持ってしまったからにはもう二度とこの世界は以前の状態には戻れないかもしれない、という事実をどうやれば人生のうちに抱え込んで生きていけるのだろう。多分それができなかったからせめてもの罪滅ぼしとして水爆推進の流れに逆らおうとしたのかなともこの映画を見る限りでは思ってしまう。最後「人々は君を許すだろう。しかしそれは君自身のためではなく、あくまで人々自身のために」みたいなアインシュタインのセリフでこの作品は締めくくられていたように思うのだけれども、何をしようともお前がやったことは消えないし、周りの人々はそうでもお前がこの罪の意識から逃れることはもうできない、もう最期までこの重しと一緒にいるしかないよという死刑宣告のように聞こえた。共産主義者のソ連のスパイかもしれないという疑いを晴らそうとしたのも元をたどれば水爆開発に対して待ったをかけるためだったわけだし。いくら洗っても一生落ちない無数の人々の血がその手にこびりついてしまったことへの絶望と、してもしきれない後悔の描写は秀逸だったと思う。ちょっと雑に思わなくもないけど、それが結局は原爆を作ってしまったことの悔悟にも繋がっているっちゃそうなわけだし。「日本は原爆を作った方ではなく、落とした方を恨むから君に罪はないよ」と突き放したトルーマンの眼差しを閉じつつある扉の向こうで感じたであろうシーンはこちらも絶望した。誰にも理解されない苦しみを永劫抱えるのだとあそこでおそらく悟った表情にも見える。だけどまあ正直なところあのラストシーン、ナチスに原爆を持たせるなの提言を出したのはアインシュタインだし、原爆開発に若干協力もしてた身でオッペンハイマーへああいうふうな言葉をかけて部外者ポジションとるのもどうなんだ???とは思う。オッペンハイマーひとりの責任では到底なくないか?もしかしたらストローズが言ってたように「殉教者」として原爆を作った罪をオッペンハイマーにおっ被せた、アインシュタイン含めた科学者たちのキモさも表現したのかもしれない。
 原爆を落としたあとに度々立ち現れる、爆弾が放つ目もくらむような閃光、称賛の声であふれかえるなか巨大な機械の駆動音のように響き渡った靴音、衝撃波でガタガタと揺さぶられる建物の幻視と幻聴がまとわりついていたのがその最たる表現だったと思う。特に靴音の演出がグロテスクさの演出にとって非常に効果的だったように個人的には感じる。人々はとにかく新型爆弾によって戦争が終結することを素直に喜んでいるだけで、その無知が放つ熱気と圧力の中に飛び込んでいくオッペンハイマーだけがおよそ自分の犯した罪の重さを予感している。埋められないギャップをあの音楽と映像で示すのはなるほどなあと思った。自分の放つ「これで戦争は終わる、日本も嫌になったことだろう」という数々の言葉の白々しさと頭の片隅で真実はその真逆だと冷静に俯瞰し、それらが当然交じり合えず乖離していく様が伝わる。神々から火を盗み出して人間たちに分け与えたプロメテウスは久遠の時をはらわたをつつき出される刑に処され、終わらない苦痛に苦しむが、ここにはその地獄の苦しみから救い出してくれる英雄ヘラクレスはいない。
 ほかにもロスアラモスが閉まるとき(トリニティ実験が成功したときかも)に研究者たちの前で喜ぶオッペンハイマーのバックにアメリカ国旗がたなびいていたシーン、ジーンが自殺してしまった後に髪の毛が浮く浴槽が目の前をよぎり、ヒトラーの自死を聞いても「落とすことで初めて世界はその恐怖を知り、平和がもたらされるはずだ」といったシーンでも実際に起きてしまった惨事と本人の理想・信念があまりに乖離していることのグロテスクさを訴える力はさすがものすごいなと思った。ダンケルクのラストシーンを思い出す。チャーチルの演説が朗々と響く中、(故意ではないとはいえ)兵士の暴行によって死んだ少年を英雄として祭り上げる新聞、銃弾だらけのダンケルクの砂浜。「ナチスに原爆を持たせてはならない」という危機感から始まった研究が、いつしか「ソ連に先を越されてはならない」になり、「ヒトラーは死んだが世界の平和のため、この戦争を終わらせるため、兵士を母国へ返すためにこの爆弾は投下されなければならない」という執念へと研究者を駆り立てていったことの気持ち悪さ。戦争はこの兵器によって終わったんだと手を叩いて喜ぶ人々がいるのと同じ大地で、何十万人もの人々が水が欲しいと言いながら苦しんで亡くなっている。3年の月日と巨額の投資と数々の技術的困難を乗り越えて、物理学者たちの叡智を結集してようやく開発できたものが結果をだせたという事実だけ見ると涙を流して抱き合う人や喜びを爆発させる人々の気持ちも勿論わかるんだけど、蓋を開けてみるとそれは大量破壊兵器だという事実が本当につらい。研究所が出来上がっていく様を見ながらつらくて泣けてきてしまった。この爆弾が日本を唯一の被爆国にしたんですよと。あなたたちの作ったそれで想像を絶するような苦しみの中で人々が亡くなっていったんですよと。誰も自分のやってることに疑問を覚えていないのもつらい。一応ラビとかがこんなん落として大丈夫かみたいに止めるムーブは見せるものの、結果として原爆は落ちたわけだし。

 これから扱うキーワードや概念のにおわせもいつも通りうまかった。毒リンゴのくだりとか実際にあった出来事なのかわからないけど、リンゴといえばニュートンを連想してしまう物理学ド初心者の私としては「純粋な知的好奇心から始まった探求が戦争によって猛毒を入れられ死をもたらす学問へと変貌し行く今後の展開の表現」なのかと勝手に勘繰りあまりのうまさに驚愕した。事実の描写だったらただの妄想ですが…
 あとかの有名なフレーズ「我は死なり、世界の破壊者なり」もここで言わせるのかと意外に思った。このあとオッペンハイマーが何を作ってどうなるか知っていれば頭を抱えたくなるような演出。その一節をジーンにせがまれて読む際に顔の片側に深い影が落ちるのも本当にうまいなあと感動すらしてしまった。世界一美しい地かなんかで挙げられるのがロスアラモスなのも、最悪の伏線の張り方をブチかましてて怒りを通り越してシンプルにすごいと思った。すげえ~~~~本当につらい。
 冒頭で学生時代にホームシックや実験のできなさ具合に苦しみながらも新しい知識を学ぶ輝き、いつか辿り着くミニマムな世界からオッペンハイマーを呼ぶ原子の声が轟音でさしはさまれるのも個人的に好きポイント。だからこそ余計にボーアの言う通り原子が奏でる音楽を聴き、その声に呼び寄せられた結果があれなのが心臓を握り潰されるようなつらさを伴う。あの音楽は靴音の轟音にかき消されて二度と聞こえなくなってしまった。

 共産主義者として嫌疑をかけられ、水爆反対運動から外されるシーンが原爆に関わるシーンよりも予想以上に多かったのもあり、原爆を落とされた国に生きる人間としてどの立場で見ればいいのか本当にわからなくなる作品だった。悪人だと糾弾してほしかったのか。原爆はただの大量破壊兵器で二度と使われてはならないとはっきり明言してほしかったのか。原爆の悲惨さを訴えてほしかったのか。だけど晴れ渡った空へとまっすぐ打ちあがる核ミサイル、爆炎が世界を覆いつくす様、それを閉じた瞼の裏で純粋に量子物理学を追いかけていた頃と全く同じように降っている雨に打たれながら見つめる姿は、何度も何度も書いているように世界そのものを変貌させてしまったことへの苦悶と後悔に満ちている。オッペンハイマーとマンハッタン計画に携わった優秀な科学者たちが生み出したこの世界でどう生きていくのか、同じことが繰り返されないためにはどうすればよいのかと問いかけているのはよくわかった。身も蓋もないことを言うと「もう原爆が落ちた事実も核兵器がこの世に存在する事実も覆しようがないのだから、過去を振り返るだけじゃなくてこれからを考えよう」っていう潔い声明を感じた。そりゃあそうなんですけど…

 サントラを聞きながら覚えている限りの情景と思った限りの感想を書き尽くしたと思っていたけど、ジャケ写になっているトリニティ実験で爆発の様を目の当たりにするオッペンハイマーの写真を見てまたしんどくなってきてしまった。明日仕事って時に観ていいものじゃないな。あの真っ赤な炎、この世界が生まれてから初めて立ち上った巨大な火柱、世界が真っ白に消し飛ぶほどの光量を、一切の音が消えた中で眼鏡越しに呆然と見つめたあの時、惑っている人をもう止められない戦争へと鼓舞し誘うクリシュナの姿が本当に彼には見えたんだろうか。
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