緑青

イニシェリン島の精霊の緑青のネタバレレビュー・内容・結末

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

おもしろかった。
おもしろかったが、どうも、しっくりこない。
好きな監督の作品だしすごく期待して観に行って、それにきちんと応える最高の映画だったのに、お腹がいっぱいになったのに、なんかどうにも物足りない気がする。胃もたれするのに満ち足りない感じ。テーマとかストーリーの影響だけでもない気がしたので、少し考えてみたいと思う。

数年前、『スリー・ビルボード』を劇場で見た際、あまりの良さに度肝を抜かれ、マーティン・マクドナー作品を他にもいくつか集中して観た。結果的にはスリー・ビルボードが一番好きだったが、総じてかなり好みの作品を作る脚本家/監督だなという印象を持った。ちょっとトリッキーに見えて実際にはシンプルな、美しく堅実に組まれた構造の中に、(どこか欠落した)男性同士の関係性と、人間という不思議な生き物の悲哀と、偶然起きる人生の奇跡の一瞬を描くのが異様に得意な方だと思う。忘れられないシーンやセリフは毎回必ずあって、基本的に一行も無駄のない脚本で、かつ役者に芝居を構築させるのがめちゃくちゃ巧みで、観ていていつも隅々まで目が行き届いた最高品質の作品を享受している充足感がある。
今回の作品もまさにそういう丁寧な設計で作られためちゃくちゃいい映画だった。間違いなく「こうなるしかなかった」完璧な脚本で、メタが重なった構造と抽象化の層が見事で、会話の応酬に何回も笑ったし最後まで秀逸で寓意的で残酷で切実でどうしようもなくて本当に良かった。どちらかというと演劇の舞台で見た方が面白いかもしれないと思わされたが(ビジュアルに引っ張られずに構造的な部分がもっとはっきり見えると思う)、あの土地の異様な美しさは映画の価値だし、おそらく作り手が第一に想定した鑑賞者にとっての、私には理解の及ばない、宗教的、もしくは原風景的な印象があるのではないかと思われる。
たとえ絶交していても、目の前でかつての旧友が理不尽に殴られたら抱き起こしてしまったり、酒場での唐突な啖呵(ベートーベンが誰かなんて知らないが、妹が優しかったことは生涯覚えている)に打たれてしまったりするのが、『スリー・ビルボード』におけるオレンジジュースとか、『セブン・サイコパス』における銃前のサム・ロックウェルのセリフとか、『ヒットマンズ・レクイエム』の「くぼみ」の件とか「君みたいに素敵な人に」のくだりとかと同じ、人間のおかしな、言語化できない巨大な感情が動く、人生における一瞬の奇跡である。一方、どうしても指を切ってドアに投げつけてしまう、中に本人がいることを知っていてなお家を燃やしてしまうのが、他の作品においても同様に発生する、狂おしい突発的な暴力だ。人生に突然殴り込んでくるこの二つの瞬間がどうしてか1日のうちに両方あったりするのは、「人間は一人一人異なる存在である」というただそれだけの事実に起因することを、この監督は徹底的に平然と描き切ってくる。
人間が一人一人異なる存在であることで、誰も悪いとはいえないのにどうしようもなく救えない瞬間が発生する。コルムは「考える人」で、音楽や芸術の永遠性に焦がれ、複雑さや追究や知性や静寂を愛し、作品によって自らの名前を後世の不特定多数に宛てて残そうとする。パードリックは直観的で、シンプルで、ルーティンに従い、動物を愛し、半径30cm圏内の生活を愛し、家族を愛し、それに満足している。明らかに合わない二人だが、おそらく人生のどこかの時点で偶発的につるむようになり、たまたま長い時間を共有してきて、今回やっと破綻するに至った。これは人間関係にしょっちゅう発生するトラブルの一つである。抽象化してみるならば、人間の歴史において幾度も繰り返されてきた価値観の相克である。今回はさらに、シボーンとドミニクという最高の脇役がついている。読書家で兄思いで孤独で、その土地から離れることを選んだ極めて賢明な女性のシボーン。虐待を受けて育ちその挙動のせいで周囲からうっすら蔑まれながら、善良さを信じようとし、自身の(望み薄の)恋愛を「夢」と語ったドミニク。どうしたってシボーンはドミニクを選べないし、結果ドミニクは自死してしまう。4人はみんな良かれと思って妥協もするし、相手に優しくするのに、どうしても譲れない部分をやっぱり譲れないから、みんな殺しあったり死ぬしかなくなる時がある。人間の歴史のあらゆる場面でそうなのだ。どうしても。それを否定も肯定もせずに描き切って、あの砂浜で終わる。悠久の歴史を貫いてきた普遍的なテーマを、この時間で、あの限られた要素で全く過不足なく描き切った、そんな映画だと思う。

いやもう、本当に見事だったのだ。すごく良い映画だと思った。印象的なカットが多くて、シンプルなのに飽きないで見ていられるし、内容も忘れないし、考えれば考えるほどいろんな側面が出てきて、めちゃくちゃ完成度が高い。だが、なんだかどうしても素直に好きと言えない。もちろん好みの問題である。が、なんというか、この映画を必要以上に評価することは、中産階級の白人男性的価値観の内面化に加担しちゃう気がするぞ、と思うのだ。
私が『スリー・ビルボード』を好きなのは、多分主人公が「娘がレイプされて殺されたことから逃れられない母親」だったからだ。そりゃ思い入れ方が違うだろう、(具体的に実際の状況が似ているという意味ではなく)より私自身に距離が近いから。それに比べると今回の主人公は私から遠い。どんな属性の主人公の作品も同じように楽しめたらいいのにといつも思って意識的にバイアスを管理しようとはしているが、「好き」という気持ちの差はどうしてもそこから出てしまう。私は「芸術作品の永遠性に焦がれる」「平凡でつまらない人間との会話を非生産的に感じる」と主張するコルムの気持ちは理解できるが、めちゃくちゃ傲慢で浅はかだなと思うし、それは歴史上非常に「男性的」な思想との相性がよく、世界に蔓延る差別や格差の根源にもなりえて、何より「指を切る」という行為が、どうしようもないのはわかるのだがいただけない。救えないロマンチストだ。指を切る、が脅しで終わらないだろうなというのは(これまでのマーティン・マクドナー作品を見ている蓄積もあり)予感があったし、彼の行動として全くもって納得なのだが、自らのプレイヤーとしての生命を打ち捨ててまであれをやるのは、パードリックに対する当てつけ以外の合理的な理由がない。人生が思うようにいかない理由全部をパードリックという人間に仮託させてしまったのだろう。パードリックを、この世における鬱陶しさ、「平凡さ」の象徴に仕立て上げてしまって、それがこちらに話しかけてくることを人生に対する「妨害」だと感じ、一方的に拒絶しては勝手に焦燥し、退屈がもたす絶望感に酔って(おそらく本当に鬱でもあっただろう)、指を切ってぶつけるという矛盾した自傷行為に至っている。パードリックを傷つけたり殺したりはしないというのが、彼のプライドである理性的な部分である(ある種のずるさでもあると思う、社会的に許される範囲をきちんと見切っているんだから)。でも、これはコルムがコルムである以上、本当に仕方のないことで、必然的であったと思う(映画として素晴らしい展開のひとつであるとも思う)。なぜなら彼はあの島にあの時代に暮らす、一人の老年の白人男性だからだ。あのアイデンティティのあり方はそのような、とある特定の条件下でもたらされている。
同じことがパードリックにも言える。毎日同じメンツでパブに通い、ひたすらどうぶつの話をし、一方でバカだと言われることを気にしてもいて、絶交されてなおどうしてもコルムに話しかけてしまい、音大生を意地悪な方法で追い出し、ドミニクからの助言に従って強気に出て(途中でぐだぐだになり)、ロバを(事故的に)亡くしてその報復として家を燃やし、なんなら相手が死ぬことすら望む、これはパードリックがあの時代にあの島で生まれ育った中年男性であるゆえの、特有の結果だ。
さらに、シボーンとドミニクについて考える。ドニミクは明け透けに、品があるとは言いにくい男性性を全面に出した言葉遣いでシボーンに誘いをかける。それは、それしか方法を知らないからだ。彼がそれまで受けてきた教育や経験の結果として持っている語彙や振る舞い方は、彼の繊細で聡明な部分と合致していない。その結果としてドミニクはシボーンに受け入れてはもらえない。シボーンは相手が丁寧に交際を申し込んできたことに、その場で考えうる限りのもっとも穏やかなやり方で、しかし自分の意思を尊重する形で拒絶する。シボーンは読書家で本当に頭がよく、真っ当で確かな価値観をしていて、周囲には適切に気を遣い、かつ図書館職員として働き口があるほどには能力があり、先見の明があり、実行力もある。それでもやはり「(嫁に)行き遅れ」と蔑まれることには、夜中に泣いてしまう程度には我慢がならない。そんな中でドミニクから寄せられる純粋な好意は、戸惑いがありつつも、心地悪くはなかったかもしれない。しかしドミニクをパートナーにすることは、彼女の人生のプランにはどうしても入らない。だから、ドミニクにとってそれが人生を懸けた必死の望みであったことを知らずに断るし、のちに兄からの手紙でその死を知り、衝撃を受けることだろう。ロバの死を知ったコルムと似た、どうしようもなかったのに罪を負ったような感情を抱くだろう。
ロバは死に、ドミニクが死に、シボーンは島を出て、男二人が海岸に立ち尽くす。
このうちシボーンに対しては、同じように「読書が好きな」女性として生きてきた点で比較的理解・共感がしやすく、ドミニクに対しては切なさと悲しさがある。だが中央にいる男性二人には、おそらく私は、ほとんど思い入れることができない。なぜなら、私はあの時代あの島に生きた白人男性ではないからだ。これは「普遍的な物語」と称されるし、もっともな評価だとも思うが、おそらく世界中の一定層の人間にとっては、「こうなっちゃうのはわかるけど、でもまあ、私だったら本当はこうはならん、だって現実的に状況が許さないから」という感想を内心持つ映画なのではないだろうか。コルムとパードリックが双方orどちらかが女性だったらこの物語は当然成り立ってないだろう。卑近な(ほとんどくだらないと言える)大人同士の絶交事件から、ひいては人類の永遠の課題を貫く普遍的なテーマを語っていると触れ回るには、ちょっと「普遍」の定義が偏っていませんか?と思うのである(いや私が言ったのだけれど)。
また、『スリー・ビルボード』でもそうだったのだが、ジェームスやドミニクといった、明言されることはないが心身に特性・障害があって他のキャラクター(=「一般」人)から見た目や振る舞いで忌避されるキャラクターが、どうしても恋愛面で救われないのは、シビアな現実の提示であると同時に、観客側の偏見を炙り出すからくりであるとも思う、が、正直にいうと「もっと痛烈に『一般』人の傲慢を責めていい」とも思う。いつもその、彼らを(礼を尽くそうと思いながらも)最終的に拒絶する役割を負うのが傷ついている女性キャラクターなので、なんかすごく辛くなってしまった。
この映画は見ると多かれ少なかれ「嫌な気分」になる作品だし、もちろん製作陣はそれを狙って作っている。ドミニクの父親も、コルムもパードリックも、あの島から出ることなく、どこへもいかない(いけない)。だからこそどうしようもなさが際立っていい映画なのはわかるが、いやお前らの方がどっか行けよ〜いっつもそうじゃんけ〜とうっすらうんざりした気持ちになる。確かに現実ではいつも犠牲になるのは動物や社会的弱者で、それを事実ありのままに描いているといえばそれまでだが、それゆえに私(アジア人の独身女性)が抱く「嫌な気分」と、この作り手が第一に想定した鑑賞者であろう中産階級の白人男性(おそらくある程度の知識層)が抱く「嫌な気分」は全然質が違うのではなかろうか。本当にそこまで考え抜かれて作られているとしたら、つまり私のこの感想が「作り手の狙った意図通り」で、製作陣は「この白人男中心主義的世界はクソだよね〜でも現実ってずっとこう〜」と言いたくて、現実問題として社会的に差別され抑圧されてきた側(シボーンやドミニク側)がこの映画を見た時の「嫌な気分」は多分かなり質の異なる「嫌さ」であるということを、知った上でのこの作劇なのだったとしたら、感服としか言えないが、なんかもう正直現実だけでお腹いっぱいだしわざわざ映画にしてくださってご苦労でしたねと思う。とても面白かったし、嫌な気分になりました。
『セブン・サイコパス』でコリン・ファレル扮するマーティが、自作について「女の子の書き方が薄い、すぐ死ぬ」という評価を受けていて、映画の構造的にそれはマーティン・マクドナー監督自身への(自己)評価に重ね合わされていたので、おそらく監督自身、女性を描くことは自分の本職ではないというふうにご自覚されているのだろう。作り手が無意識ということはないと思うし、受け手側が冷静に見るべきことだとも思う。やはり「私たちの目から見ても普遍的」と評価するには物足りない。めっちゃ正直に「私にはよくわかんない映画だった」と言ってしまってもいい。私はあの時代のあの島の白人男性と価値観を共有する人間ではないからだ。あの物語のはらむ「普遍性」は、その価値観に大いに依拠しているのに、丁寧な作り込みと秀逸な脚本によってかなり受け入れやすくされている。そりゃウェスタン風の撮り方にもなるだろうと思う。古風で男性中心主義的な世界観のもとにしか、あの展開は起こり得ない。この映画の主題はちょっとまろやかにした『ライトハウス』です、と紹介しても別に間違っていないと思う。あれも灯台に象徴される、男性性への執念が起こした陰惨な事件を扱った映画だし、作り手もはっきりとそう見えるように作っている。

断っておきたいが私は本当に脚本家としてのマーティン・マクドナーのことが好きだし、監督の名前だけで今後も見にいくと思う。今回の映画も本当に良かったのだ、ある意味当然の理由でしっくりこなかっただけで。普段映画を見る時、当たり前すぎて気にならなかった男性中心主義の視界が、あまりに完成度が高かったゆえに引っ掛かりとして残っただけである。本当にいい映画ではあった。
ただ、そんな自分のことは棚に上げて、この映画を大評価しているアカデミー賞のことは「本気かよ〜」と生暖かい気持ちで見ている。英語圏に住む白人のおじさんが主演の映画で「普遍的テーマ」を扱えると当然のように思いすぎじゃないか。アカデミー賞のことは馬鹿でかいローカル映画祭だと思っている(暴言)が、世界的にある程度大きな映画賞であることは事実なので、今後どうなっていくのか大変興味がある。本当の本当に「多様性」とか「普遍性」を評価できるようになるまでに、私という観客も含めて、あと200年くらいかかるかもしれないね。
あと、何度も言うようだが、舞台で演劇としてみたら、また印象が変わるかもしれない。私にアイルランドの文化にほとんど知識がないので、歴史や伝承が肌感覚として染み込んできたら、また違うものが見えるかもしれない。いつか見返す時があったらいいなと思う。以上、いろんなことを考えた、いい映画でした。
緑青

緑青