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イニシェリン島の精霊のsaranoのネタバレレビュー・内容・結末

イニシェリン島の精霊(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

この作品は、三つほど深刻な社会問題を内包していると思った。

一つは、女性の社会進出。小さな島社会で女性の地位は低く、行き遅れと罵られる妹。彼女は賢く本を読んで暮らし、この退屈で憎悪が溢れる島から解放されたがっている。そして実際に出て行き、本土での暮らしを満喫する。主人公である兄には、「満喫」と言う言葉はわからない。

二つ目は、狭くプライバシーのない村社会であること。手紙は勝手に開けられ、噂は広がり、人々は何もない島でゴシップと悪口で日々の鬱憤を晴らす。大っぴらに言わないけれど確実に伝播していく悪意が、うっすらとこの島を覆っている。閉鎖的な社会は今でもどこの国でも存在しており、そこに個人の権利はないだろう。

三つ目が一番深刻であり、人間としての自己実現を達成することができないということだ。コルムは人生の終わりかけに気づいた。音楽を通して自分を表現したいと。この島のくだらないお喋りで、残りの時間を無駄にしたくないと。50年後、今生きている人は忘れられるが、芸術は200年残る。モーツァルトに今更なれないだろう。でも何か作ることに意味があると信じて、信じないと生きていけないほどに真剣に向き合う。

しかし愚鈍なパードリックはその自己実現したいという気持ちが分からない。理解できない。しようともしない。彼が大切なのは生きている今であり、刹那的な生である。大いなる人間の歴史の中のちっぽけな存在であることを考えすらもしない。子供もいなくて大丈夫。ただ周りの人と馬の糞の話をして、ビールを飲んで、畑を耕して寝る。大いなるアイルランドの自然の中で。その在り方に全く疑問を持たないのだ。

芸術家はなぜ表現をするのかというと、忘れられたくないからだ。自らの才能を歴史の中に刻みつけたい。何千年前から連綿と続いてきた芸術は、時を超え人々を繋げる。名前は忘れられても、自分の生きた証が残る。ただちっぽけな存在として残らないのが怖い。

コルムは若い時には気づかなかった。パードリックと同じように退屈な毎日に疑問を持たなかった。しかし、昨日気が付いた。こんな奴と向き合っている暇はない、若ければ精進のしようもあったが、この島では仕方がない。残りの人生を賭けて、作品を作らなければいけない。

この人間の根本的な自己実現の欲求は、平凡で退屈な人々には理解されない。ただあいつ、おかしくなったのでは?話してはくれるが、何かが変わった、なんなんだと騒ぎ立てるだけ。親友のパードリックは混乱するばかり。いきなり無視されて酷いじゃないか!許せない!

呆れるほど正直で、真っ直ぐで愚鈍な彼は、やがて音大生を追い返したり、神父に頼んだり、慣れない陰湿なやり方をとるようになる。コルムは意に返さない。ただただ邪魔をされたくないだけなのに。無視をすればするほどパードリックは、突きたくなる。そんな彼には言葉で分からせる方法はないだろう。切った指をドアに叩きつけない限り。指が5本なくなっても、ヴァイオリンを振り続ける、それでも表現だから。

「イニシェリン島の精霊」は、あの老婆であり、魔女である。この島にぴったりで陰湿で、悪どく、ただ見守り死に誘う。マクベスの魔女のように、彼女の預言は当たった。運命に手招きをして。

パードリックは愚鈍すぎる。果たして愚鈍なことは罪なのか?彼の刹那的な生き方とコルムの自己実現は、交わらず二つの道に分かれていく。決裂した後の表情は、相手を理解し合っているように見えた。


個人的に衝撃を受けた作品であり、鑑賞後は動悸が止まらなかった。面白いし、コリンファレルの演技が絶品。面白かった。
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